左マウスクリック → 戻る

F'Trackの日記 Blog

日頃私のハートで感じている事、夢、 なさねばならぬ事、そしてなしえる事、・・・・・・・・・

そのような事を思いつくままに、ランダムに綴って行きたいと思います。

古い記事の中には、リンク切れや、画像が表示できない物がありまが

記憶の変遷を残すために そのままにしてあります。

光のかけら

第84回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

この頃は、人のちょっとした心遣いがとても心に響きます。

昨日に引き続いて今日も良い事がありました。

人に話せば「なあんだ〜」と言われてしまいそうな些細な出来事でしたが、

世の中と言うものは この僅かな心遣いに飢えていると思います。

今日は久々に夫婦そろって電車に乗りました。

30分も揺られれば目的地に着く距離でしたが、寄る年波には勝てず

できれば座って目的地まで行きたいと

生ぬるい気持ちになっていました。

乗車駅で車内を見渡すと席が二つ空いていたのですが、一つおきの空席でした。

家内をその片方に座らせ私は前に立ちました。

私は元来電車に乗る時是非着席したいとは思わぬ方だったので

今回も何の気なしに立っていたのです。

二つ空いた間の席には中年のサラリーマン風の乗客が座っていました。

ほとんど間発をいれず、すっと立って隣の席に移動し二つ席を並べて空けてくれたのでした。

無言のままでの全くの自然な行動でした。

私は思わず「ありがとうございます」と声をかけ 空けてくれた席に家内と並んで座りました。

車内の空気は何一つ乱れず、全くに自然さだけが漂っていました。

ちょっと大げさな物言いをしてしまいますが、

類人猿が他の動物と分かれて決定的に進化を遂げる事が出来たのは

 この 人の気持ちを察すると言う行為が極自然にできたからなのだと思っています。


日頃の反省

第83回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

今 午後の十時半、いつもはまだまだ起きている時間でしたが

今日は少し疲れてベットに横たわりながらテレビを見ていました。

何かに誘われるように起き上がって 突然筆を執り始めました。

今日あったほんの些細な出来事を思い出して。

今日は家内に頼まれお墓の掃除料を納めるために郵便局へ出向きました。

納付する事が出来ました。

手書きで数字が書かれた書類なのにどうして自動機で送金できるのか少し不思議に思っていましたが、

手元の画面にはそのスキャン画像が表示され確認を求められました。

さすがに送金金額だけはキーボードで打ち直しました。

手元に持っていった預金通帳より1万円をおろし、それを送金口に押し込みました。

請求されていた金額は8千4百何十円かでした。

当然のようにおつりがコインと札の返却口から戻ってきました。


後ろに待っている人の気配を感じ、

急いでそのおつりを取り出して其の場をどこうとしたのですが、

後ろに居た 私よりかなり若い人より声を掛けられてしまいました。「忘れ物がありますよ」と。

最初何の事を指して言われたのか見当がつきませんでした。

自分では手に持っていた小物を確認して持ち帰ったつもりなのに。

それでも もう一度良く其の場を見回すと、

おつり紙幣の返却口が開いたままになっており、お札が一枚残っていました。

なんともみっともない光景でした。

単におつりを回収するのも忘れて其の場を立ち去ろうとしたのでした。

そして後ろで待っていたその方が私に声を掛けてくれた事に、やけに恐縮してしまいました。

至極一般に見られる光景で

、もちろん声を掛けてくれた方も取り立てた善行を行ったとは感じていないはずです。

なぜこんな僅かな事柄に心より感激してしまったのでしょう。

自分の普段の振る舞いに あまりにも情けなさばかりを感じていたからなのかもしれません。

第82回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

スーパーお婆ちゃん

どのように書いてよいか迷ったのですが、どうしてもこの事は書きとめておきたかったのです。

今年98歳になるお婆さんの話です。私は定期的に老人ホームを訪れる事にしています。そこには
いろいろな人生がちりばめられていました。過ごしてきた生活 も本当にいろいろなのでしょう。

受付を通って居室に入ると、何時も決まった廊下の場所にその方は座っていました。頭まで固定
する事ができるようになっている車椅子の上でした。
皆が過ごしていられる所に行くにはその廊下を必ず通るのですが、何時も後ろ向きの姿勢で座っていました。

一見堂々とした、未だ体もしっかりしているように見えました。
今年の敬老の日の祝賀会いで、その方は最前列に座っており初めて98歳になっておられたと言う事を知ったのでした。
表現は悪いのですが、ある意味仁王様のような堂々とした風格で しかし決して怖い顔はしておらず
むしろ柔和な優しい面影でした。

ある時、その場所を通過する時、なんとなくその方と目があったような気がして軽く会釈をしました。
その時それに答えてくださったかどうかは解りませんでしたが、自分としては少し親しみを増したように感じました。
私はどちらかと言うと人見知りで、面識の無い方と挨拶を交わすことはまずありませんでした。
そこを訪れる事に回を重ねるごと いつしか小さな声を出して挨拶するようになっていました。

特別な車椅子に頭を固定されているからなのか いつ見てもしっかりとこちらをにらんでいるように感じていました。
そしてその顔と姿がだんだん忘れられなくなり頭に焼き付いてきました。
ある時その方の横を通る時 思い切って人に聞こえるような声で始めて挨拶をしました。

すると、その顔がほころび、何かとても恥かしそうに会釈をしてくれました。
想像もできないくらいかわいい姿に見えました。その方は若い頃どのような生活を送っていたのか私には全く解りません。
聞くところによるとご家族や親類の面会もめったに無いようでした。
どうしてあんな素晴らしい顔で居られるのだろう。思わず考えさせられてしまったのです。
堂々とした体格で、しっかりとした風貌なのに 少女のようなはにかみ様はどう考えてもそぐいませんでした。
今では私が其の場を去る時に必ず「さようなら」と挨拶するようにしています。
もう何年もお知り合いだったような暖かな空気の行きかいを感ずるようになりました。

話はそれだけです。
特に挨拶の力や意味を訴えようとしているのではありません。思い切って声をかけた勇気を誇っているわけでもありません。
ただ人生とはこんなものなのかと深い部分を悟ったような感じがしただけです。


第81回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

報復

報復っていやな言葉ですね。でも人は受けた悔しさをなかなか忘れる事ができないものです。
私なんかとても弱い人間ですから、些細な事にすぐかっと来て仕返しを考えてしまいます。

アメリカの911」テロが起きて早10年が経ち 人々もいくらか平静を取り返したかに見えます。
表向きはどうであれ、その悲しみは一生涯消え去る事はないでしょう。
その悲劇の1年後一つの小さな団体が結成されました。ピースフルトゥモロウと名乗っていました。
当時日本ではそのような事実はほとんど知られておらす、私も最近NHKのBSアーカイブスと言う番組を見て
その存在を知りました。

身近の人をその悲劇で無くし、悲しみにくれながらも当時の世論であった報復攻撃を
必死に食い止めようとしたのでした。時流に取り残されて非国民とさえののしられたそうです。

その事実を知って、常日頃の自分の思考、行動を思わず振り返ってしまいました。
考えてみれば、彼らはごく当たり前の主張をしていたに過ぎません。
自分と同じ苦しみを もうこれ以上広げたくない。そんな当たり前が きちっと見えていたのでしょう。

目には目を。

当たり前にさえ思ってきたこんな感情がこの世からもし消え去る事ができたらどれだけ
未来は住み良くなるのでしょう。そんな事を言いながら自分はどこまで踏みとどまれるか
全く自信がありません。


第80回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

いつか誰かが

この広いインターネットの世界ですから、こんな小さなサイトの記事を
見てもらえる可能性は 満天の星空の星をただ一つ見出すより難しい事なのかもしれません。

でもいつかは誰かの目に留まり、そっと共感してくれたら初期の目的を果たせたと思っています。

取り立てて新しい事でなくとも 日常の当たり前をふと思い出して心を暖める
そんな一言を書いていきたいのです。その感想も共感を表す言葉も 何一つ求めていません。
実は皆自分の心を慰めるために、ここに記録しているだけなのかもしれません。

MyHeartもだいぶ回を重ねてきました。自分の心の変遷を眺めているようで 痛し痒しの部分も
沢山存在します。生涯に100回まで達する事ができるでしょうか。
心に留まる事柄や目に触れる出来事は沢山あります。そのたびごとに私の心が震えても
手は思うように動いてくれません。


第79回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

支えあう

人間皆支えあって生きているのです。東関東大震災に見る
現地の方々の整然とした振る舞いは 如実にこの事を物語っているのでしょう。
互いが互いを思いやる心は大切で、皆がきちっと認識しているはずです。

しかし その支えあう力は必ずしも平均が取れていないことに気が付いた事があるでしょうか。
時として一方的な負担を強いている事さえ少なくないのです。
特に注意しなければならないのが、幸せの絶頂期にいる場合です。
決して自分一人の力でそれが得られたとは考えていないでしょうが、
実は多くの場合 隠れた誰かの犠牲の上に胡坐をかいていることが多いのです。

その事実を反省する必要は無いのかもしれませんが、時にはその事に対する
考察も必要ではないでしょうか。少なくともそんな事実に気が付かなければなりません。

Will you know it?

Sacrifice supporting happiness

If you are happiness now,
I want you to think just at one time

Being you who make ends meet on much sacrifice

Therefore you must never forget
consideration to them


第78回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

幸せ色

幸せ色ってどんな色なんでしょう。私はそれを紫色だと考えています。
ご存知のように赤色に青色を混ぜると紫色になり それえぞれの混ぜる量によって
赤に傾いた赤ワインのとろけるように酔う色や、青を多く含む朝霧の、深い静寂の色にもなります。

高揚したハートは赤い、悲しみや恐怖の青ざめた顔色はだれもが真っ先に心に浮かべる事ができるでしょう。
でも私は、幸せと言うものは決して真っ赤な色であってはいけないと思っています。

物事は対比があってこそ光を放つのではないでしょうか。
ほんの少しの青色がスパイスのように効いてあの美しい紫色を形成するのです。

A red balloon and cold wind to dance in the sky
They drew a purple dream for an instant

The sky of a lavender field
A color the same as my dream
A color the same as a balloon dancing for north wind

Even if my heart is blue
The red setting sun changes it into purple
Purple is a color of a dream

A color of happiness

私は毎日が紫色に彩られているのだと思っています。ただその色が
太陽の赤に偏っているのか それとも深い湖のような青色が多く含まれているのかの
違いだけです。

だから どんな日が来ても失望せず、感謝を忘れてはなりません。


第77回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

旅路

人生ってよく旅にたとえられます。
いろいろな 思いもよらぬ出会いに遭遇したり 行き着く先は風任せって事だってあります。
宿はひと時の休息の場、鉄道の駅は門出を祝う場なのかもしれません。

そんな旅立ちの時は 帆にいっぱいの風をはらませた帆船のように勇ましく突き進んでいきますが、
出会う天候の変化に 時に打ちひしがれ、たまにはつかの間の陽射しを
一時だけ謳歌する事だってあるではありませんか。

長い旅路はやはりめっきりと疲れを感じてしまうものです。
今までに経験した絹をなでるようなやわらかい思い出に心を和ませたり
麻布のようにシャキッとはしていても どこか冷たいほろ苦さを思い出させてくれる事もあります。

このサイトの詩のページで歌った事を思い出します。

A fragrance of wind
A groan of the earth

Brightness of a star
Fear of darkness

Thought of a beloved person
The escape from sorrow

One bundle of ray
Unspeakable uneasiness

All these are taste of life.

そんな事とは解っていても つい愚痴の一つも言いたくなってしまうのが人情です。

人間って、その時のほん一瞬の事しか評価しないのかもしれません。
たまたま場が悪く 曇り空の下でついぽろっとこぼしてしまう言葉に
自己陶酔してしまうのでしょう。

私は今一生懸命自己弁解をしています。
傍から見ればそんなに悪い人生でもなかったはずなのに こんな事を考えては罰が当たってしまうのでしょう。
きっと今晩一夜を過ごせば 又新しい勇気が涌いてくるのを固く信じて 眠りにつくことにします。


第76回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

愛した人。


愛とは、人間にとって男女間の関係ばかりではありません。
最も愛と言う言葉が当てはまるのかどうかわかりませんが
人を本当に好きになると言うか 自分にすっきりと受け入れられる関係が
構築できるといった方が正確かもしれません。

私は過去に、何人かの幸せな出会いを経験する事ができましたが その中の一人、
とりわけ印象深いのがペンネーム gallopinggoose と言われた
アメリカ鉄道のマニアでした。その他にもフライトシミュレーターに関する知識を豊富にお持ちで
多分ウエッブ上でご存知の方も沢山いらっしゃる事と思います。
「どですかデン鉄 日記」と言うブログを運営されていました http://gallopinggoose.at.webry.info/200911/article_3.html#comment

と言う過去形の話なのですが、現在は我々の世界にはいらっしゃらなく
壮絶な病との闘いで終に他界されてしまったのでした。

実は私は その方との面識もありません。もしかすると知らずにお会いしていた可能性もあるのですが、
事後のその方の遺影を拝見し お目にかかった事をどうしても思い出すことができませんでした。

あの方の事をなぜそこまで強い印象として受け止めていたかというと、特別な出来事があったわけではなく
普段のメールの通信や、ブログ上のコメントのやり取りで 私が知る限りの人には無い
きらりと輝く物を持っておられたからでした。
どこがどうだったとは説明できません。いただいたメッセージの中に普通では見られない
自分にしっくりとそぐう部分が多量に内包されていました。

人の出会い、そして関係を築く理由は千差万別で、本当に不思議とさえ感じてしまいます。
多分その方の一言の中に誰もが共感 感銘を受けるセンテンスが含まれていたとも思えません。
私だけに感じ取れた暖かさ、センスの良さ、豊かさが混在していたのでしょう。
お亡くなりになってからかなりの歳月が過ぎ去っていますが、いまさらその思い出を持ち出したには
見えない糸が今に至るまで繋がっていつと言う証なのかもしれません。

今回は、人と人との関係にはこのような素晴らしい結果をもたらしてくれると言う一言を申し述べたかったのです。


第75回目原稿 古い記事は下へスクロールして見てください。

失望と歓喜の狭間で。

本当にしばらくぶりの投稿です。
この My Heart は、私の心に何かがひらめいた時にしか書く事が出来ません。
私のハートは、そんなに長く何もひらめかなかったのでしょうか?

「失望と歓喜の狭間で。」

人とは、そのような生き方をしなければいけないのだと思います。
誰だって 歓喜にうずもれての生活を望むのかもしれませんが、
とても陥りやすい誤解は 自分の回りには失望しかない、
と勘違いしてしまう事です。
もがけば、もがくほど泥沼に足が嵌まっていくあの恐ろしい現実が
脳裏を掠めてしまうからなのでしょう。

大自然の天候は晴れ後時々曇り、後に雨 何て事はしばしばです。
人の生き方もその自然に逆らう事はできません。
こんな解りきった事、誰だってわかっているはずなのに、
ところが現実は失望の中に置かれて押しつぶされそうになっていると
勘違いしている人間や、歓喜しか見えない 哀れな人生を送っている場合が
意外と多いのではないでしょうか。
そんな甘ったれた生き方の結果として 何が残るのでしょう。

私は常日頃思います。
私の人生は失望と歓喜の狭間で生きているのだと。その事こそが、
何と正常な生き方なのか 今更ながら解るようになりました。

今の私の身の回りには、毎日不安がいっぱい渦巻いています。
一つ一つ歯を食いしばって解決策を模索しながら、降って沸いたような
歓喜に突然酔いしれてしまうのでした。
そんな人生は多彩です。この多彩である事こそが とても重要な事なのだと思います。


何も起こらず ただ日々の暮らしが同じ事の繰り返しなら、
多分生きている自覚さえ無くしてしまうのではないでしょうか。

ところが悲しい事は 続くものです。
歓喜の体験はすぐに頭から遠のいてしまうものなのかもしれません。
そんな自分と周りの他人を比較して、一喜一憂する哀れな人間に
私だけは、決して陥りたくないのです。


第74回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

今考えている事

これから先、どのように生きていくのがベストなのだろうかと。
人生の目標を失ってしまったのでしょうか?
今までにも迷った事は幾度となくありました。
でもその度に必要に迫られて
生きていく方向が決まってきたのでした。

ところが今回は その方向がなかなか見えてきません。
人生も終盤に来ると、手に入れたい物欲や
人に必要とされる事柄がほとんどなくなってきてしまったからなのかもしれません。
自分自身でもやりたい事はとことんやって来たつもりでした。
多分、物質的な欲望はもうほとんど何も見つかりません。
こんな時に 精神的な強さと安定が何にも益して必要になってくるのでしょう。

人は経験を重ねれば、それだけ深く物事が考えられ
適切な行動が見つかるものと思い込んでいました。
でも最近体力の衰えが、それを邪魔しているのでしょうか。
昔は大病もしましたが、体にだけは自信があるつもりでした。
今でも心の中でその考え方はちっとも変わっていませんが、
実質を見返すと泣きたくなるような状態です。

人生とは、どれだけ長くでなく、確かな日々を幾日多く送れるかという事が
最も大切なように思えてなりません。

今日老人ホームへ行く機会がありました。
私の娘と、まだ1歳にもならない赤ん坊を連れて行ったのでしたが、
普段は穏やかな施設の中も、その様な顔ぶれで行くと
突然様子が変わる事に気付きました。
下を向いて、黙々とお菓子を食べていたおばあさんの
何人かが、娘の赤ん坊を見つけ 声をかけてくれました。

普段見ることの無い はつらつとした若い声と動作を感じました。
はるかに年上の人々でしたが、その笑顔と声は
私より数倍も 生き生きとしているように見えました。
将来をいぱい含んだ赤ん坊の生命力が
これだけ大きなパワーを持つとは
ほんの少し驚きました。

生命力の持つパワーの素晴らしさと
何も出来ないはずの赤ん坊の力に
今更 自分の状態を振り返ってしまったのでした。


第73回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

何で、英語の詩なのだ

誰にだって 夢と言うものはあるではないですか。
詩を書く事もそうでしたが、英語の授業はとても苦手でした。
授業中に何度も指され 恥を書いた思い出がよみがえります。

だからこそ、詩なのです。英文なのです。
もしこの場所を訪れて下さる方が英語に長けていて
間違いや、おかしな言い回しを見つけても
もしできるなら、そっとしてやってください。

これを書いている人物は小心者の、ほとんど何も出来ない人間なのですから。
やっとの思いで、ありったけの知識を振り絞った結果です。
バイリンガルにしてあるのは、自分が再び その詩を見る時の
道しるべなのです。

でもこのところ、文字で心を表す事に
一筋の光を見出していました。
若い頃は全く気付かなかった光です。
誰にだって苦手な事はあるでしょうし、それをほとんど
人生が終了する時まで気が付かない場合だってあるのです。

自分でも解っているのですが、私は昔から
大器晩成型だと思っていました。
その言い回し、ちょっと正確ではありません。
要するに人並みのスピードで物事を理解したり、実現する事ができなかったのです。
でも、どんなに遅れても 人様のできる事は
自分にだって必ず実現して見せるという意気込みだけは持っていました。

それが、この詩であり 英文であり、私小説なのです。


第72回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

詩人

人生に、一回でよいから詩人の真似事をしてみたくなってしまいました。
他人が見て たわいの無い事でも、自分の心に響き渡り
それなりの世界が実現するなら それ以上のことは何も求めません。


第71回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

迷った時に頼る者

人生とは 迷いの連続です。
自分の服を選ぶような小さな事から 将来を決するであろう
大事に至るまで、明確にあるべき方向が見えないのが
現実だと思います。

当然私自身も毎日迷いの連続でした。
即決せねばなら無い事も多数あり、
緊張がほぐれる事はありません。
そんな毎日を、過去にはどのようにして過ごしてきたのでしょうか。
以前はそばに両親も、頼れる師も
すぐ手の届く所にいたのですが、今は私ただ一人です。
決して一人で暮らしているわけではありませんが
もう誰にも頼る事ができないのです。

本当の心の底を明かせないと言うのは
情けないとも、不幸になったとも思っていません。
誰にも相談する必要が見出せなくなってしまったからなのかもしれません。
長い人生を経て、問題を解決できるのは
所詮自分自身しかいないと悟りました。

私がもし既婚者ならば、そして子供たちに囲まれていたら
毎日を何も迷う必要は無かったのでしょうか。
どのように想像してみても 答は同じです。

以前にこのMy Heartで、人は単独で生きられないと言いました。
間違いなくその通りだと思います。
常に相手の心を思いやらなければならないのですから。
そして自分の心を思いやってくれるのは
誰の役目なのでしょう。きっと回りの皆が
真剣に対応をしてくれているはずです。

だからと言って、迷いを他人に押し付けるわけにはいきません。
現実は、孤独な人間が集まって 社会を形成しているのでしょう。

人と人との関係、自分自身の問題を
混同してはならないのだと思います。
所詮は一人ひとりが独立して生きていかなければならないのですから。


第70回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

たまには、

ほんの少しでも、たまには社会に
何かを還元すべきだと思います。何の力も無い私に出来る事は
どのような事があるのでしょうか。

大切なのは、ほんの時折でも
そのような疑問意識を持つ事だと考えます。改まって
明確な実績ばかりを積み上げるのがすべてではないはずです。
小さな自分は どのような時も生きているのでなく、
生かされているのだと知るべきです。
本来人間と言う動物は単独で生活できる
種ではないのですから。

助け合いも良いでしょう。弱い者に向けた援助も良いかも知れません。
各々の実情を踏まえて出来る事から実施していけばよいのでしょうが
それにも増して大切な事は、先に掲げた
たとえ時折でも、社会への還元に付いて、思い起こしてみる事だと思えます。
思っただけでは、何の実も結ばないように思われそうですが、
少なくとも、自分勝手な生き方を反省する事が出来るのですから。
皆が、全体の事を考えていければ
間違えなく その将来は明るく保障されたものになるはずです。

今日 ホームのたった一開口部の窓拭きを手伝ってきました。
普段の私には何一つ他人に還元することなんてできないと思っていましたが、
そのような経験が出来、作業後の薄暗い部屋の中から
戸外を見渡した時の晴れやかな気持ちは
しばらく忘れることは無いでしょう。

ほんのたまには、このような話も思い描いてみてください
たかがほんの少しの窓ガラスの曇りがとれたからと言って
現実には 何にも変わることは無いのですが、
少なくても 私の心が晴れやかに透き通った事だけは確かです。

きわどさとは


第69回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

危険な試み

こうして、ウエッブ上に My Heart や私小説を公開する事は
もしかするとかなり危険な行為なのかもしれません。
なぜなら不特定多数の人に 自分の内面をさらけ出す事になるのですから。

特に未熟な文章でそれを表現する事は
危険極まりないという認識は持っています。
しかし何故 その様な事を続けているのでしょう。
誰かに自分の気持ちをわかってもらって
あわよくば共感を求めているのでしょうか。

実は私自身にもその答を明確に得る事はできません。
ただ 自分の人生 思いを、自らの心の内だけに閉じ込めておく事ができない
何らかの力によって推し進められています。
もしかすると 最近まで物を書き記す事が
とても苦手だった事に由来するのかもしれません。

実は、ある時から猛烈に
書きなぐる事が止まらなくなってしまったのでした。
書いている内容を深く精査する前に
キーボードの手は勝手に文字を打ち続けるようになってしまいました。

もっともっと慎重にならなければいけないという心の叫びと裏腹に
原稿はどんどんたまっていきました。
大体私の性格として、自分自身を
霧の中に包み隠してしまう事は大嫌いです。
手の内を明かしてしまうから 昔から貧乏くじばかしひいていましたが
今もって、その様な性格を改めるつもりはありません。
過去に何度も他人様の気持ちが理解できない経験を経てきましたから
是めて自分くらいは 心の内を明確にしておきたかったのかもしれません。


第68回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

きわどさ

人生、皆 ヤジロベイのようなもの。
危うい力関係で やっと均衡を保っているように見えて仕方ありません。
でもそれらを支える針先は、ただ一点
つまり、その均衡の基準はただ一点に絞られるはずですから、
物事の善悪も 基準点が明確故 わりと簡単に判断できそうですが
その均衡を保つのが不安定で
結果的にユラユラと揺れ動いているように見えてしまうのかも知れません。

大地にしっかりと根を張った 大木のような生き方は 理想だと思います。
どのようにしたら実現できるのでしょうか。
自分自身の事を振り返っても、この様な人生は
到底不可能に近いと 諦めてしまっていましたが、
歴史を紐解いてみる迄もなく
素晴らしい生き方を実現している人を
大勢見掛ける事ができます。
彼らと私で、どのような部分に違いがあるのでしょう。

大木のように生きるポイントは
人生にしっかりと根をおろす事で実現し、ヤジロベイ的生き方は
その根拠をただ一点に求める
物事の考え方の基準の持ち方の違いにだけある事に 気付いてしまいました。

きわどさとは、左右になかなか定まらない
まさにヤジロベイ的生き方の中から生まれるのですが、
良く考えてみてください。
ここでどちらが正しいと、選択する意味があるのでしょうか?
少なくても 両方の生き方にはしっかりとした
基準点を持っているのですから。

ユラユラとした、きわどさ に問題があるのでなく
何時までたっても基準点を定める事の出来ない
一見動きが鈍い考え方にこそ
大問題が潜んでいるのです。
幸いにも私にはヤジロベイ的基準点をしっかりと持つ事ができています。
例え きわどさの中に生きていても
何一つ心配する必要はないのだと
改めて安堵の念を持ってしまいました。


第67回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

えらい所に、足を踏み込んでしまった。

突然 私が小説を書き始めてしまった事に付いて
ほのちょっと当惑してします。
今日までは 何の前知識もなく、ただ手先の動くままに書き綴ってきたのですが、
今日始めて ウエッブ検索サイトで「小説」と言う項目を探してしまいました。
今まで、この道にほとんど興味もなく、まして まさか
自分が 書く当事者になろうとは想像した事すら無かったので
ほんの少し専門知識をかじって 自分がどのような立場にいたかが
はっきりと解ってしまったのでした。


私は当初、勿論今現在でもそうですが
誤字脱字や日本語文法がそこそこに
真ともであれば 何をどう書いても良しとするつもりでしたが、
当初の目論見も まともに実行できている自信は 今でも全く持っていません。

元々専攻作家になる夢など毛頭ありませんでしたし
まして 人に認めてもらうなど 大それた事とは全く無縁なつもりでスタートしました。
私小説 なんていうジャンルを何処にも見つけることが出来ませんでしたし、
ただ単に 普段の自分が考えている事を、後に自分で見返したいだけだったのです。

でも現状は、すでに Chapter 7 迄進んでしまったので
今更後にも引けず、今後もしばらく醜態をさらす事を
覚悟してしまいました。
私の年齢は既に年寄りの部類 真っ只中ですから、
多少の無礼はお許しいただいて
読んでくださった方の心の片隅にでも
ほんの少しだけ 何かを残すことが出来たら本望です。

人間は やはり幾つになっても自己を主張したがる者なのかも知れません。
その小説ページに綴られている内容は 自分の日記帳に書けば
すんだ話しなのですが、あえて今回は
私のホームページという場を選んでしまったのでした。

その所在は、
http://www.geocities.jp/yaya_ftrack/Data_MyHeart/Novel/Novel.html#anchor_Chapter_1です。


第66回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

正解

物事の正解を求める事は、永遠のテーマのようです。


貴方は 生き方の正解を求めていませんか?
子供の頃からの教育が 皆を同じ方向へ導いてしまったような気がします。
一方向へ集約する考え方って、本当に正しいのでしょうか。
誰がその正解を決めるのでしょうか?
時の政治家は、声をからして訴え続けています。
私はいつもそれを煩いとしか聞こえませんでした。

どう考えても、これがあるべき姿。と言った主張は
受け入れがたいのです。
何故 そんな「あるべき姿」が簡単に見つけられるのでしょうか。
そんな事を言ったら 世の中から政治家は要らなくなってしまうかもしれません。
方向性を定める、皆を導く。とても大切な事なのですが、
その正解をどうやって見つけるのでしょうか。

人は皆経験から、多分このようにしたら 物事が
旨く収まるだろう事を頭に描くはずです。
だから 一見方向性が見えてきたように感ずるのでしょうが、
それが絶対の回答と、決め付けてはならないはずです。
問題を解決すべき時、皆が力を合わせやるべき事は
多くの意見を出し合い、その考えをお互いに深く理解する試みを怠らず
素直に考え方をより合せる事だと思います。

指導者は それを一本にまとめる必要が生じるかもしれませんが、
そんな時に 正解の早とちりが起こるのかもしれません。

どうでしょうか。例え正解をまとめる事ができなくても 総意の方向へ
皆が流れていく努力に 協力を惜しまない事
それこそが政治家のあり方だと えらそうに捉えてしまいました。

今の私に 政治の事など論ずる気は毛頭無かったのですが、
言葉の成り行きから こんな表現になってしまいましたが、
要は 物事の正解を 性急に求めてはいけないと 言いたかっただけなのです。
それに近づけるであろう努力の方向だけ
見据えるべきだと考えています。
正解が解らなければ そこに向かう努力の方向の取り様がないと、
お叱りの言葉が返ってきそうですが
ただ 正解なんてそんなに簡単に見つかるものではないと
言いたかったのです。

正解が何であるかは、結果からでしか 導き出す事はできないのですから。

正解をすぐに見いだせなくても、当面の目標を持つ事は大切です。
目標を持つ事は努力の方向性が定まる事ですから、
日常生活には何の支障も起こらないはずです。
これこそが正解だと りきまず、
定めた目標の実現に近付こうとする努力こそ
尊いのだと思います。

求める目標が正解かどうかを、心配する必要はありません。
目標とは 必ずしも最終到達点を指すとばかりは限らないのですから。


第65回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

幹と枝葉

大木だって枝葉が無ければ生きていけません。
幹はしっかりと枝葉を支えています。

世の中には相反する二つの考え方があると改めて気付きました。
互いに関係しあって相互が成り立って居る事実。
枝葉に気を取られて 本質の幹の存在を見失ってしまう危険。
目前の取捨選択を迫られた時、どちらの考え方を採っていかなければ
ならないのでしょうか。

この二つの考え方は、どちらも真理なのだと思います。
若い頃 例え適切な選択方法においても 取捨選択の結果生まれる
回答が 唯一の正解答とは限らない。
と先輩から教えを受けた事を思い出してしまいました。
正に今回の疑問が その答を表しているのだと気付きました。
ここでキーワードになる言葉が、「多様性」だと思います。
ともすると、私達は この多様性、柔軟な考え方の
重要さを忘れがちになってしまっているのでしょう。

世の中には おうおにして自分の考え方を
押し付ける人間が存在します。
勿論自分だって気付かぬ内にそんな落とし穴に嵌まってしまう事が
あったはずです。常日頃私はその様な人間が
大嫌いと叫んできましたが、それこそ人の過ちを指摘する
権利を持たない自分を発見してしまいました。

今回のスレッドで何を言いたかったか?
それは物事を 固定観念的に捉えてしまう恐ろしさを
再思考してみたかったのです。


第64回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

虚像と実像

この言葉は 光学の世界で良く使われるのかもしれません。
しかし人間の思考にも 又同じ対比が存在します。
想像、憧れが その虚像に相当するのでしょうか。

現実主義という考え方がこの世には存在しますが、
実像でなければ意味をなさないという解釈は、言いすぎでしょうか。

そもそも そのどちらかに優劣を付ける事、どちらかを否定する事が
妥当だとは 私には到底考えられません。
人間って、夢に頼って生きていける動物なのではないでしょうか。
目標を持つ事と、夢を見る事は同義語のような気がします。

ところで、私は夢多き人間です。過去にそのどれだけが実現できたかは
別として ここまでやってこられたのは 間違いなくそのお陰だと思っています。
ここで一言 言いたいのですが、実現しなければ夢を持つ意味は無い。と
絶対に考えてはならないと主張します。

今回ノーベル平和賞に アメリカの新しい大統領
オバマ氏が選出されました。
核兵器の無い世の実現を全世界に訴え、実現の為に世界各国と協調し
ていこう。と言う考え方、発言が その受賞理由だと思います。

その大きな理想は 現状では明らかに虚像であり、
正直な所、その本人も 又世界中の人々誰もが実現を保障できません。
ノーベル平和賞の存在意義は
人々の幸せの為に貢献できる、その優れた考え方を後押しする
意味合いが多く含まれているような気がします。
考えるまでも無く、あの大国の総合的な意思として
あれだけの事を主張できた功績は 確かにただ事では片付けられません。
そんな虚像が実像となった時、・・・・・・・・

その夢を持ち リーダーシップを発揮して主張出来た事こそが
その素晴らしさなのだと思います。
ただの取るに足りない一市民の私でさえ
虚像の重要性を心にしっかりと噛み締める事ができました。


第63回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

勝手気ままに

My Heart とは実に良いページを作ってしまいました。
我ながら感心しています。
書いてある内容が素晴らしいからではありません。
勝手気ままに、私の思った事が何でも書けるページなのですから。
人様に いやな思いだけはさせぬように気は使っているつもりですが。

このページと姉妹ページのような 私小説なるページも作ってしまいました。
理由は簡単、単にノンフィクションと フィクションの対比を書いてみたかっただけです。
当初私自身 こんなに長く書くことが続くとは思ってもみませんでしたが
最近は 次から次へと題材が涌いて出てきます。
面白い、面白くないと言う目で判断しないで下さい。
そこに表している内容は 一人の人間の死に物狂いの
記録なのですから。

時にはキーボードの前に向かった一瞬の気持ちを書た事もありますし、
もし叶えれたら 素晴らしいと思う提案のつもりで投稿した事もありました。
いずれにせよ 勝手気ままに振舞える 自分だけのスペースを持つことは
なんと心を揺るがす事なのでしょう。
毎日の生活が、平坦さを忘れ 精気に満ちた抑揚すら感じてしまいました。
なんと言っても嬉しかったのは 子供の頃から持っていた
トラウマを克服できた事にあるのかもしれません。
あんな苦手な 作文がどうして日課のように書き綴る事ができるようになったのでしょう。

きっと私の心を説き払った何かがあるはずです。
この My Heart の企画を思いついた事が すべての始まりだったかもしれません。


第62回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

病んだ心

焦燥感が現実となると、絶望感へと至るのでしょう。
事の前触れを繊細に感知する能力が焦燥感なのかもしれません。

何かが起こる。首筋に冷や汗が流れるように体の芯をくすぐる物があります。
痛いのでもなく、痒いのでもなくただ くすぐったいような捉え処の無いいやな感覚。
何もかも、どのように辛かった事でも 乗り越えてきたつもりでした。
正直言って 自分が弱い人間と思った事は ただの 一度たりともありませんでした。

でも何か、胸騒ぎが抑えられません。
神経性の病気になってしまったかとも思いましたが それとは少し異なる
迫ってくるような恐怖。
過去の経験の何かが、私にそっと迫り来る現実をささやいているようでした。

最近、すぐにやらばならない事を 遠ざけようとする力が働くようになってしまいました。
簡単な身の回りの片付け物でさえ わざと目に入れないような努力をして
実行を妨げてしまうのです。
たかが一冊の本を本棚に戻す事すら出来なくなってしまいました。
完全な異常事態です。

こんな事、自分で書いている内はまだ ましなのかものかも知れません。
落ち着いて原因の可能性を一つ一つ検証してみる事が解決手段となるのでしょうが、
最近 自分の健康にも自信が無く、自らは平気と思い込んでいても
やった事を見返すとぞっとする事すらありました。
周りに居る家族や親戚の姿を見ても言い知れぬ不安が走っていきました。

表向きは 取り立てて困る事も無く、
かといって他にも原因を見出せない毎日が続いています。
これが現代の世相そのものなのでしょうか?
先が不透明な霧の中を抜け出せない 焦りを感じてなりません。

過去に私は、脳裏を走ったいやな事柄が、
現実の物となってしまった経験を持っています。
なまじ未来をずばり読んでしまう占い師のような経験をした事で
余計に敏感になってしまっているようで 怖くなってしまいました。


第61回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

動揺

落ち着かない心を抑えて、この原稿を書いています。
ここしばらく 身に余る挑戦をしていました。
私は幼い頃から 国語の授業が大の苦手で、中でも
作文を書く事は脅威に等しいものでした。


そんな私が 私小説なる物を書き始めたのです。
他人様に見せられる代物ではありませんが、その片隅には
私の心の一辺も滲んでいるのではないかと
ここにご紹介した次第です。
鏡に映った旅


感想など何も持たずに読み流してください。
書いたものを、読んで欲しい、見つけて欲しくない と
心が常に動揺していました。


やっぱり、世の小説家と言う者はすごいですね。
頭の中の世界を 堂々と表現できる資質を持っているようです。
でも素人の書いたものは、頼りなく危なげですが
読者の心を動かそうと言う 大それた野心は
全く持っていません。
本当かな?
ほんのちょっぴりは うなずいてくれると嬉しいのですが。


第60回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

耳と言う機能

今、目の前のCDが回っています。The Best of Amazing Grace 。
イギリスの古い時代に歌われた賛美歌で、アメリカでは西部開拓時代から
移民を中心に広く親しまれ、
9.11以降さらに多く耳にするようになりました。


取り立てて説明する事もできないのですが、
私はそのメロディーが大好きでした。
子供の頃に良く聞かされたパイプオルガンの響きのせいかもしれません。


音楽は人の心を 底から和ませてくれる不思議な力を持っています。
クラッシックからジャズまで 何でも聴いてきた人生には
他に変えがたい力を秘めていると信じていました。


あまりにも美しい音色に心も和らぎ
本題に入るのを忘れてしまいそうでした。
耳と言う機能はとても重要で 今のような私みたいに
心を解き放ってくれる事が多いのですが、
世の中には雑音も 本当に多いですね。

「人の噂も49日」、とよく言いますが
場合によっては一生引きずらなければならない程の
ダメージだってありえます。
自分を振り返っても そんな幾つかを
思い出すことすら出来てしまいました。


逆の立場からすれば、「口は災いの元」
となるのでしょう。勿論中風することは 宜しくないのですが
時として 発する方が全く気付かずに
軽い一言を吐いてしまう事だってあるはずです。
私は最近 そんな事がとても怖く感ずるようになりました。
人は、言葉を重ねて意思疎通しなければなりませんから
そんな落とし穴は いくらだって存在しそうです。


かといって、口や耳を閉ざすのも考え物でしょう。
どちらも取捨選択を厳しくして その機能を守っていかなければなりません。
突然 あたりまえのような事柄を並べましたが、
自分がこのような形で発言できる場を得た事に
一抹の不安すら感じてしまったからです。


第59回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

大切なもの

貴方は大切な物を持っていますか?
大切に思える者がいますか?


私はやけっぱちになって 何もかも捨て去ろうとした事が
過去に何度もありました。
順風漫歩の人生とは言えなかったので
至極当然の事だったかもしれませんが、

幸いな事に一度たりとも 自棄を起こして
人を傷つけたり、自分を損ねるような事はありませんでした。
そのピンチの心を思いとどまらせるだけの力を持つ
大切な物、大切な者が居たからです。


人それぞれ大切なものは違うでしょう。
他人から見れば取るに足らない事でも
自分を守るには十分すぎるほどの力を発揮する事だって
あるのです。


私の大切なものをご紹介しましょう。
勿論その第一は家族。
そして、そしてそこから先はちょっと
数えきる事ができません。

何番目に数えられるのかは解りませんが、
このホームページでご紹介している
趣味だって、その重要な役割をしています。
人は平成である時
ほとんどそれらの助けを借りずとも生きていけますが
ひとたび自分だけで解決し得ない難問にぶつかると
その脆さは計り知れません。
やはり人間と言う物は単独で生きることの出来ない動物なのです。


昔から「子はかすがい」と
よく言いましたが 子供の
可愛さを借りて夫婦仲を保とうとする格言です。
「花よりだんご」とも言いますが、
当然見かけよりもその実を狙えと言う事なのでしょう。
あまりにもあたりまえすぎて
通常は忘れがちな事柄を、たまにはもう一度考えて見ませんか?


いずれも大切な何かにすがってしまう事の
又はそれを見失うまいとする努力の実態を示しているようです。
自分にとって、今何が一番大切な物なのだろう、
誰の為に苦労をいとわずに突き進む事ができるのだろう事を
機会あるごとに落ち着いて掘り下げて見なければならないのだと考えます。
同時に その大切ななものを普段から
しっかりと身に着けてさえいれば、
心配する事は何も無いと言えるのではないでしょうか。
私は自殺を、人間のなすもっともおろかな行為だと
考えています。
自分で身を滅ぼさないまでも、破滅行為にまっしぐらに
つき進む事だって同じです


第58回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

優先順位

誰もが、こんな問題に日常茶飯事悩まされているのではないでしょうか。

ある意味では 道に迷って分岐点に立たされた状態を
思い浮かべる事と思います。
私は日頃、人の考える事なんて 大同小異だと
思っていました。


でも一つ注意したいのは、その優先順位をどのように決め
実行しているかを大きく取り上げなければならないと考えます。
まったく同じような成り行きが、正反対の結果だって生み出してしまうのですから。


今日ちょっとした放送番組を小耳に挟みました。
何年か前に連続して起きたエレベータ-事故の教訓が、
その後どのように生かされたかと言う追跡番組でした。


警察の責任追及を目的とした捜査結果は
残念ながら再発防止には敏速に生かされなかったようです。
別の角度からも事故調査による再発防止の努力はなされたようでしたが、
実を結ぶ結果を十分に得られなかったと聞きました。
私自身も警察による責任追及の重要性は十分に理解しているつもりですが、
なぜ 真っ先に再発防止に向けた努力が
なされなかったのでしょう。


私にどちらの行動が重要かと言う結論を
早急に下す事はできませんが、一つだけ言えるのは
悲しい事故は 何としても真っ先に繰り返しを無くす事ではないかと
しか思えません。

誰だって、どのような部署でも同じ気持ちで
解決に当たっていたはずでしょうが、
もしかすると優先順位が、ほんの少し間違っていただけなのかもしれないと
ふと考えてしまいました。
物の考え方や、どのような他の理由よりも
真っ先に 二度と人の命を損ねる事があってはならないと
考えるべきなのだとしか思い当たりません。
この結論に多くの矛盾を含んでいる事は重々承知ですが、
理屈より現実の方を優先すべきではなかったのでしょうか?


第57回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

マッチ売りの少女

アンデルセン作の、このお話しをご存じない方はいらっしゃらないはずだと思います。
貧しい女の子が真冬の寒空にマッチ売りをして
その日をしのいでいました。
ある晩、あまりの寒さに女の子は耐え切れず売り物の
マッチを一本すって手を暖めようとしました。
するとその光の中に、暖かい暖炉やおいしそうな七面鳥のご馳走、
綺麗に飾られたクリスマスツリーまで姿を現しました。

もう一本すってみると、大好きだったおばあさんの姿が
映し出されてきたのです。
その姿が消えないようにと 残りのマッチを全部すってしまいました。
暖かく優しいおばあさんの手が女の子の体を包み、
やがて天国へといざなっていきました。


あくる朝、町の人々が目にしたものは
すべてを燃やし尽くしてしまったマッチの燃えかすを
傍らに

屍がよこたわっていました。


とても悲しく寂しいお話なのですが
今更、言葉に言い表せないほど複雑な思いがこみ上げてきました。
幻想を追いかける事は罪悪なのでしょうか?
目の前に示された確固たる事実だけが重要なのでしょうか?
私には 真に幸せだったであろう女の子の気持ちが
解るような気がします。
このような事って幸せと呼んではいけないのでしょうか?


最近、人の死に付いて
何気なく思い巡らせるようになりました。
目前の現実が、生きる意味に占める割合に付いて
考えるようになってしまいました。
こんな事、現実逃避をする弱い人間だけが
考える事と思っていました。

何故急にこのような題材を取り上げたのか
詮索しないで下さい。
人の頭で考ええる事は 残らず
検証してみたかっただけなのですから。


又、この場所に戻ることが出来てよかった。・・・・・・・・・・・・


第56回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

困った!!

第56回にして、この項も終わりを迎えるのでしょうか?
今までかなり長い間 悩み多き人生を過ごしてきました。
だからこそ 心の中には解決せねばならない問題が
山積みだったのです。
言ってみればこの場所は私のうさ晴らしのスペースであったのかもしれません。

バイオリズムだかなんだか解りませんが、突然
私の心は正常化してしまったようですが、
良い事ばっかりではありません。
今まで続けてきた投稿も しばらく何も書けなくなってしまったような気がしてきました。


人間苦しみがあるから いろいろな事が
心を巡るのかもしれません。
正常化した乾いた心の中には
独り言をもらす隙間さえ無くなってしまったのでしょうか。
決して完璧な人間になれたという事ではありませんが、
形が整ってしまった心の中には
つぶやきは何も残らなくなってしまいました。


この項だけでなく、F'Trackサイトその物の
存続さえ危ぶまれます。
正直な所 何も書き足す気になれなくなってしまいました。
飽和状態というのは恐ろしい物です。
決して私が幸せになてしまったと、勘違いしないで下さい。

あれもこれもと 望むのが間違いなのだと思います。
今の自分の状態は 単なる
ごまかしの幻想なのでしょうか?
今更かえってプレッシャーの大切さを
思い浮かべてしまいました。


今後不死鳥のようによみがえれるのでしょうか?
人生どう転んでも 安堵の時は見出せないように思えてきました。


第55回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

バイオリズム?

私は内科医者でも、ましてや精神科医でもありません。
そもそもバイオリズム?の存在は以前から知っていたつもりでしたが、
私にとっては その結果を明らかに感じた事はほとんどありませんでした。
そもそもバイオリズムと言う言葉すら ちょっと怪しみながら使っています。

私のMy Heartに対する最近の投稿は、どれをとっても
消極的で 何となく暗い方向へ偏っていたと思います。
そんな事はないよ。 と言ってくれれば嬉しいのですが、
少なくても自分自身ではその様に感じていました。
人生にはいろいろなことが起こるとは思っていましたし、
自分にも言い聞かせてきました。
人様と比較すれば取るに足らない事ばかりであっても
自分には重くのしかかっていると思え、沢山重なったと感じていました。
そう、バイオリズムで言うと 一番下がった状態が結構長く続いていました。
毎日の作業はかろうじてこなしていましたが、
そして心の内を他人に悟られないようにと頑張ってきたけれど
少し限界を感じ出していたのです。


少し前に、この項でも
昔のクラス会に付いて書いた事があります。
その時は、一時的に現実を忘れ ほんのわずか昔に戻ったような
安らかな気持ちを感じたことを思い出します。


でもそんな特例を除いて、事態は悪化の一歩を辿っていきました。
いつかはこんな現実から抜け出そうと、雅か自殺迄は考えていませんでしたが、
どこか遠くへ 逃避の旅に出たいと思うようになっていました。
私の悩んでいる内容が解らなくて、何とつまらない事を言っているのだと
思われたかも知れませんが、とてもお話できるような内容ではないので
ここではふせる事にします。

ところが今日突然、何の前触れも無く
さっと霧が晴れるように くすんでいた心の内が晴れわたってきました。
どんなきっかけがあったのでしょう。ほとんど思い当たる
原因は見つからないので、やっぱりバイオリズムの為に気分が
好転してきたのでしょうか?
やっている事は其れほど日常とは変わらないのですが、
多分瞳は輝いていたと思います。腐った秋刀魚のような目玉は
嘘のように青く晴れ渡り、さっきまでの
暗雲はなんだったのかと思ってしまいました。


落ち着いて考えてみれば、原因がまったく無かったわけでもありません。
今晩も、昔はまったく見る習慣の無かったテレビ番組を追いかけていました。
今年の始め頃、ニューヨークのハドソン川に不時着し
百数十名の乗員乗客が全員無事に救助された
様子が映し出されていました。
ベテランパイロットの的確な判断と、優れた操縦技術が
その災難を最小限にとどめたニュースを皆さん ご存知だと思います。

その番組を観ている途中で、心の中の様子が突然好転したのかもしれませんし、
もしかしたらそれ以外の要素があったのかもしれませんが
ともかく 今は別人のようになりました。


今回、そんな平凡な人の心の動きを取り上げてみたかったのです。
こんな世の中ですから、もっともっと大変な悩みをいっぱい抱えた
方々がいっぱいいらっしゃる事と思います。
その様な中、こんな現実もあるのだと ふと思い出していただきたかったのです。
人様を勇気付けられるほど、そんな優れた文章を
私に現す力はありませんが、
今回の出来事は、あまりにも突然巡ってきて、
わけもわからずに正常人に戻った自分を、恥ずかしながらご披露したしだいです。



もう一つだけ、アドバイスになっていない話ですが、私が感じた事を
お話してみます。
悩みにはいろいろあると思いますが、すべてを否定するのでなく
やれる事はとことんやってみる。それが例え
娯楽の範疇であってもです。人様に迷惑をかけない事なら
必ず試してみる価値はあるはずです。


第54回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

今、考えている事

今の時間は、丑三つ時
いつもとっくに 床に付いている時間です。
何となく眠れなくて ふと My Heart の事を思い出してしまいました。
この場所への寄稿はいつも 何かをハッと思いついた時です。
でも、今は頭の中、My Heartはガランドです。

常日頃心がけている事があります。
何かを考えようとする時、意識して自分の頭の仲を
白紙に戻して、傍から見るとアホのように
うつろな目を半分閉じて 今あるもの 何もかもを
排除するよう努力していました。
つまり私なりの、心のリセット行為でした。


いつも、つまらぬ題材ばかりしか浮かんでこなかったので
たまには一発ぶちかましてやろうと、
私としては似合わない事を試そうとしていましたが、
当然のごとく何も浮かんできませんでした。
でもこの空白の時間って、なかなか魅力的なのですよ。
普段は考えも付かなかったとっぴなアイディアが浮かんでくる事があるのです。


放心状態を続けている内に
ふと考えてしまった事があります。
何故自分は人様に自分の心の内をぶちまけているのか と言う事を。

考えが、一人では処理しきれなくなってしまった為でしょうか?
そんな事も無さそうです。心の内を他人にぶつけた所で
どれだけの 得る物があるのかわからない事位 心得ているつもりです。

実は、自分以外の人間に同意を求めたかったのかもしれません。
これでも自分では、今まで生きてきた証として
まともな事を言ってきているつもりでした。
誰しも陥る危険なあやまちなのですが、我こその考えが
一番正しいのだと。


今 自分もその様な間違いをおかしそうになっている事に ふと気付きました。
他人に同意を求めるのでなく、間違いがあったら正して欲しいと言う
切実な気持ちに変わってきました。
私もまだまだ謙虚な気持ちは忘れていないようでした。
このMy Heartの項目には、皆様からのご批判を受ける手立てが用意されていません。
私からの一方的な押し付けの発言ばかりでした。
専用掲示板のような物を用意すれば良いのでしょうか?

でも本来、個人の心の内は
そのできる範囲で 自分の内に暖めておいた方が良いのかもしれません。
自分でも訳がわからなくなってきたので、もう寝る事としましょう。
ほんのちょっと、リアルタイムで 今の自分の気持ちを
ぶちまけてみたかっただけなのですから。


第53回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

生き方の問題

生き方の問題は、考え方の問題に置き換えられるのでしょうか?
物は考えよう、良くも 悪くするも自分の考え方次第なのでしょう。
たまにはこんな事を掘り下げて考えてみるのも如何でしょうか。

私は一応、酸いも甘いも噛み分けて味わった人間のつもりだと思っていました。
過去を振り返ると、今でも辛かった思いでは山ほど積み重なっていたように思います。
一時、酸いと甘いと思えた過去の比率を考えてみた事がありました。
当時の結論としては、半々と言った所だったでしょうか。
まあ幸わせに過ごしてこれた部類なのかもしれません。
でも歳と共に生活が苦しくなってきました。
経済的にはお陰さまで 路頭に迷う事はありませんが、
精神的には悩み事が多くなったような気がしています。
今更迷ってどうする。いつも自分に言い聞かせている言葉でした。
若い頃には気付かなかった人間関係や家族の事、子供の事。


日常に其れほど不平不満を持っているわけでもありませんが、
何かしっくり来なくなった現実を感じる事が多くなりました。
世の中も変わり、それぞれの生活も変わり、子供達は大きく育ち
何も無い方がおかしな話なのかもしれません。
自分の人生も一段落し、今まで気にしてこなかった
もろもろの日常を 改めて見つめなおすようになったせいかもしれません。


心の中で、今日も腹を立ててしまいました。
些細な事ですが、無性に悔しく、悲しく
何が原因で思い通りにいかないかと考え込んでしまいました。
そんな時は 自分を振り返ってみることが一番なのでしょう。
ふと 以前の自分と今を比較していました。

体は思い通りに動かず、考え方は益々頑固になり
陰の方向へばっかり傾いていっている自分を発見してしまいました。
絵に描いたような年寄り像です。
これでも自分だけは まだまだと思っているのですが、
きっと傍から見れば 相応の様子を呈しているのかもしれません。
歳を重ねるって、そんな事なのでしょうか?
若い頃にはまったく考えも付かなかった事でした。
もっとも深刻な事は、将来の様子を下降線を辿る方向にばっかし
考えてしまうようになった事です。

勝手に私が そう考えている友人が居ます。
最近の情報では 彼の体がかなり深刻な状態で
かける言葉にすら迷ってしまいました。
私が希望する結論に、現実はちっとも近付いてくれないのです。
所詮は限りあるものですから 非現実的な考え方は適当ではないと思いますが、
せめてもと 夢想してしまう自分を嘆いています。


何故もっと前向きに生きられなくなってしまったのでしょう。
ほんのちょっと視点を代えれば そこには正反対の現実が
隣り合わせに居るはずです。
そうなんです、よくよく考えてみると今の自分の違った立場が
浮かび上がってきました。これだけ恵まれた環境に置かれているにもかかわらず
不平不満ばかりが一人歩きしている事を。

この問題の結論を、ここで堂々と述べることが出来たら、
私は天才です。(ほんのちょっと自分を盛り上げて)
迷えるおじいさん羊の独り言。・・・・・・・・・・・・・・・・


第52回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

今、この時

皆さんはどのようにしているのでしょう。
先日大学時のクラス会案内が私の手元に届きました。
懐かしく開封しましたが、今回は出席する事が出来ません。
一昨日、このF'TrackサイトのURLを幹事の方に連絡しました。
迷った挙句の事ですが、出席もせず近況も伝えずじまいでは
あまりにも失礼かと思ったからです。
早速見てくださったようで、うれし、はずかしの
気分でした。

あれからどれだけの月日が経った事でしょうか。
かなり前に出席した時は、皆さん それぞれ
確固たる人生を築いているようで 眩しくさえ感じてしまいました。
今回、わざわざ海外からも戻って出席する仲間もいるようです。
確かに皆年輪を刻んだ跡は容姿に見受けられましたが、
面影はちっとも変わっていませんでした。


何か変わってしまったのは、自分だけのような気がして
ちょっと寂しくなった事を思い出しました。
元々目立たぬ存在でしたから、それも良しとしましょう。


キャンパスは何処までも広がっていました。なぜか
落ちていく夕日と、砂埃だけがまぶたを掠めます。
現在はかなり立派になってしまった校舎も
当時は鶏小屋と見まごう程の粗末な作りでしたが
そこで繰り広げられた授業は昨日の出来事のように
思い出してしまいます。
いろいろな事がありました。
友人が大型昇降盤で、指をソーセージのように裂いてしまった
大怪我も、多分製図の授業の時、大きな箱に多数並んだ
カーブ定規を探す手元まで
ちらついてきてしまいました。
そうそう、関西の仏閣に接する為 研修旅行にも
列を連ねました。
何もかも昨日の出来事のように感じられ、
そんな気分にさせてくれた 一通の手紙に
改めて感謝しています。

今回も半数近くの同輩が集まるようです。
各自一段と人生の重さを感ずるようになったのでしょう。
単なる想像の世界ですが、益々はなれていくような気がして
焦りを感ぜずにいられません。


今自分は、何をしているのだろう、
今日まで過ごしてきた道筋に、後悔しているわけでは
決してありませんが、これからの人生を見直す
絶好のチャンスと考えてしまいました。


もし生まれ変われるとしても、あの時 別の選択をすればよかった
と言う判断は見当たりませんし、
こうなれば良かったと思える事も ほとんどありません。
つまり、今のありようしか 私には無かったのです。
人生は未だ先が長い事でしょう。こんな機会を
バネにして 思考の再構築を行うチャンスと
捉えています。


第51回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

諦め

あきらめて、何と便利な言葉でしょう。
でも、一つの思いがなかなかかなえられないからと言って
そんなに落ち込む事も無いと思います。

またまた、今回も結論を真っ先に出してしまいましよう。
諦めと言うのは、まったくの無意味な行為だと言う事を。
考えてもみてください。
結果がわかるのは あなたが一生を終わる時なのですよ。
例えば今年の入試に何としても合格したい。
でも今立っている合格者発表掲示板の上に自分の名前を見出す事はできません。
絶望のどん底に落とされて、自分の人生これで終わりと
あきらめてしまうのですか?
何かの事故等で 大切な家族を亡くしてしまったら
後は諦めしか 待っていないのですか?


耐え難い苦痛なんて、人生には幾度と無く訪れるものだと思っています。
何にも換えがたい想いは、現実に存在します。
でも実際にその想いが叶えられなかったら
すべてがおしまいなのでしょうか?


時間はその瞬間すべて止まってしまうわけではありません。
回りは何事も無かったように巡っているはずです。
絶望と諦めは同意語でしょうか?
難しい日本語に付いて私は良く解りませんが、
何処となく違うように感じています。
単に時間のずれをあらわしているのだけなのでしょうか?
絶望の次に、諦めが来るのだと。

そんな劇的な出来事でなくても
諦めと言う感情は 気付かぬ内に忍び寄ってきます。
私なんか毎日のように それと似た感情を味わっていました。
私事ですが、自分の脳は今どれほどまともに
機能しているかわかりません。過去の大病の結果です。
それにかこつけて どれだけの大切な事を
見過ごしてきた事でしょうか。
「諦め」と言う便利な道具を軽々しく使ってきてしまっていたのです。
今の科学では未だ十分に解明されていないようですが
人の脳は、残った正常な部分が 失ってしまった機能を
かなりの範囲で補ってくれるようです。
今日も右脳の前頭葉を含む75%がダメージを受け 通常ならありえない
回復を見せた中国の青年の話を知ってしまいました。
彼が言っていた 印象的な言葉が「愛」の存在でした。
両親の愛、回りで自分をサポートしてくれた人々の愛、
目に見えないすべての人々のそんな心づかいによって
自分の今があるのだと。


実は今回、自分の為にこんな題材を選びました。
毎日、あまりにも多くの「諦め」を味わっていると
思ってしまっていたからです。
こんな事ではいけないと、何度と無く立ち直ろうと努力していました。
藁をも掴む想いでした。
落ち着いて考えてみれば、そして他人から見れば取るに足らない
事ばかりなのかもしれませんが、その苦しみが日に日に増していくようでした。


いつかはこのような堂々巡りから抜け出す為にと
今回、こんな題材を選んでしまったのです。
軽々しく口に出してはいけない題材とも思っていましたが。


50回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください。

My Heart

気が付けば、このエッセイも50回目を迎える事になりました。
エッセイなんて格好良いものではありませんが
ともかく正直にMy Heartを表してきました。

これが私の現実です。何とも非力な文章の積み重ねでした。
しかし大切な事は、裸の心を常に忘れない事だと思います。
人は皆 何も染まらない裸の心を持っている内は
幸せで、何も心配することはありません。
世の中で起きている問題行動は、皆
その真実の心を覆い隠すように、藻のごとき何かが
纏わり付いてしまった結果です。
どのような人も、汚れでも
掃除をすれば良いではありませんか。
ほんのちょっと勇気がいる事なのかもしれませんが。


でも、ほんの少し考えてしまいました。
藻のような汚れは、本当に何の意味も無く
ただただ問題行動を起こすだけなのでしょうか?


食べ物もスパイスを利かせると
俄然魅力的な味になります。
そして怪しげな思考を逆なでします。
今回はこの危険なスパイスの魅力を探ってみたいと思いました。
逆説的に考えれば、陰の部分が無ければ、光を放つ意味が無いのだと思えます。
実はその対比を作る為に、人生のスパイスが用意されたのかもしれません。
決してスパイスの魅力におぼれろと言っているのではありませんが、
その存在意義もたまには思い出し、日頃の行動と対比させて
考えてみては如何でしょうか。


第49回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

目標

人生の目標なんて いとも簡単に見失ってしまいます。
勿論そんな事、私に限った話ですが。

私にも生きていくための目標が無かったわけではありません。
特に若い頃は明確で確固たる目標を掴んでいました。
それにまっすぐ突き進む事は抵抗はあっても
何と気持ちの良い事だったのでしょう。
最高の充実感を得る事ができました。

ところで目標とは普遍的なものなんでしょうか。
又そうあるべきなのでしょうか?


何方も歳とともに生活は変わっていくのだと思います。
それが変われば 目指す方向が変わってきて当然なように思います。
でもその変わり目が問題なのでしょう。
首尾よく次の物が得られれば、そんな心配は無いのでしょうが
現実と言うものは対外切り替え時に間延びしているような気がします。
私の場合もそうでした。
ひとつの事を完成させた充実感もつかの間
次のなすべきことが洪水のように迫ってきました。
激流に飲み込まれないように精一杯生きるのが
やっとな時もありました。


よく人生には充電期間が必要だといわれていたような気がします。
バッテリーだって充電せずに酷使していれば
やがてはすべてを失ってしまいます。
人生の充電とはどのようなことを指すのでしょうか?
今大企業ではリフレッシュ休暇と言うのが流行っているようです。
何もかも放り出して、じっと自分を見つめる。
そんな時間を指すのかもしれません。


私の場合、幸運にも趣味を幾つも持っているので、
それに没頭する事によって ある程度気持ちのリフレッシュは可能でした。
でも、切り替え時期の変化を吸収するほどの力は無かったようです。
そういう訳で 今現在も心はユラユラと揺らいでいます。
きっと生活もかなり乱れているのだと思います。
早く次の確固たる目標を見出さなければなりません。
理想の高い事は幾つも思い浮かびますが、
大切なのは人生の実になる事、人の為に成ることでなければなりません。
でもどんな小さな目標でもかまわないのではないでしょうか。


第48回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

一度はこんな題材を元に書いて見たいと思っていました。
世界の人々が愛する代表は、やはりこの「花」なのではないでしょうか。
美しさの象徴であり 愛を描き 花を以って死を飾る。
男女を問わず何方にも理解していただけるはずだと思います。

ふと考えてしまいました。どうして「花」にそれだけの力があるのかを。
時として野に咲く一輪の花でさえ 人の心を
大きく揺らがせることができる事でしょう。
その美しさゆえなのか、はかなき存在故なのか

大自然の作り出した 驚異の傑作なのだからでしょうが、
生物学的には子孫を残す大切な役目をになっています。
その果たす役割の大切さの為に皆が
それにかかわろうとするのかもしれません。
絵画の世界でも 音楽においても
芸術を超越した題材として取り扱われきたように感じています。

私たちの世代では世界的に流行した
「花は何処へ行った」と言う反戦歌を 思い浮かべます。
今晩テレビ放送で 偶然それを聞いてしまったゆえかもしれませんが、
そのしめっくくりとして、この歌が人々から忘れ去られ
単なる思い出となってしまう日は 何時の日の事だろうと
問いかけがありました。


戦争とは、この歌詞が巡るように
国家間の悲劇から 一家族の身近な人生まで
すべてに深い関わりを持っていると 述べられていたのにまったく同感でした。


私が経験した人生の出来事で、その「花」にまつわる話が
無関係だった物を見出す事ができません。
そして身近な生活の中にも絶える事がありませんでした。


今の今まで、そんな身近な あたりまえと思える
存在を思い返した事は無かったのです。


第47回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

心の内

手の内を明かしてしまうことは、その人の弱みとなってしまうのでしょうか?
賢者は手の内を明かさずに、その得体を知られないように振舞うのだと思います。
手の内を明かすことは、ある時は弱みを見せる事であり、
こちらの思惑をさらけ出してしまう事に繋がるような気がします。

人間、いつも強がりを言って強く生きていかなければならないのでしょうか?
たまには、心の奥底に潜む真実を探る為に
何もかもさらけ出すのも悪くないような気がします。


世の中には、思惑の釣り合いと言う者が存在するような気がします。
真実同士がぶつかり合うのではなく、陽炎に似た
実態の薄い探りあいが横行しているように感じてなりません。


私は過去に、自分の真実を述べたが故に
一般には苦い経験と言えそうな体験を何度かしました。
でもいまだ嘗て一度もその行為を反省したことはありません。
むしろそのような機会があったことにさえ、心の安らぎを感じてしまいました。


中には突っ張って暮らす事に、生きがいを感じている
御仁も多い事と思います。
しかし決してその様な生き方に批判を向けるつもりはありません。
むしろ、その様な生き方に 憧れる事さえありました。


このMy Heartは一個の弱い人間が
自分の生き様を記録する為に書いています。
自分が何も出来ない弱い人間である事を、皆様に
知られてしまっても まったく悔いは残りません。


弱さを包括する人間にこそ、真の優しさが存在するのだと思っています。
自分がもっとも求めている行為を、人様に向けることができえるのだと考えています。


第46回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

思い出

何方にも心に秘めた 思い出の一つや二つはあるものだと思います。
そこで今回 私は昔の思い出に浸ろうと言うのではありません。

実はこの所 思い出の大切さに気付き始めました。
若い頃は意識しなくても やってきた事すべてが
美しい思い出となって残っていくような気がしました。
でもある時から そのあまづっぱい味を
忘れてしまったのでしょう。

もう思い出に頼らなくても生きていけるようになったのでしょうか?
毎日をまともにこなしていくだけで、精一杯になってしまっていたのかもしれません。
それともその思いで以上に魅力的な出来事が
毎日繰り広げられるようになってしまったのでしょうか?


無粋な話ですが、私は旅行と言うものにお金を掛けることを
長い間 善しとしていませんでした。
物を手に入れれば、いつもその成果を目の当たりに楽しめると思ってきました。
何と人生をつまらぬ物として捉えてきた事でしょう。


過去にも何度か大旅行をした事はありますが、仕事にかこつけて
出費の事はまったく気にしませんでした。
先日、と言ってもかれこれ2年近く前になりますが、人の進めもあり
思い切って長年の夢をかなえるために旅立ちました。


結果は New F'Track Blogにも何度も書いていますが
しばらく忘れていた 心の揺れを心いっぱい味わう事ができました。
戻ってから 未だにあふれる記憶がよみがえってきます。
実は今回、その時の強かった心の衝撃を
ここで表そうとしたのでもありません。


もうかなり昔に はやった歌で
「青葉城恋歌」というのを聞く機会がありました。
ご存知のように仙台の伊達政宗が建てた青葉城にまつわる
歌です。有名な「荒城の月」と並んで
人々の心に焼き付いていると思います。
人並みに私の心の内にも それを口ずさんだ記憶が残っていました。
そしてふと気が付きました。


目に見える物質と、誰も手で触れることの出来ない
心のぬくもりと、どちらが魅力的なのかを。
人はふとしたきっかけで普段は忘れていた
心の底が見えるものです。
そして思ってしまいました。いえ、改めて気付いたのかもしれません。
しみじみとした「思い出」の、何と大切なぬくもりが滴っている事を。


私は思います。
自分の子には ほとんど何も物質的な物は残せませんでしたが、
せめても 豊な「思い出」だけは 十分に残してやりたいと。


第45回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

見栄っ張り

どのような賢者でも見栄っ張りの要素は持っていると思います。

そもそも それ自体が良い事なのか悪い事なのか
性急に結論付けられません。

人間も自然界においては強く生き抜いていかなければなりませんから
他のものとの競り合いも必要でしょうし、
同種の人間どおしでも張り合っていかなければ
生きていけない社会構造なのでしょう。


でも私はその事がどうしても好きになれません。
他人より一方先に出る事に どれだけの意味があるのでしょうか。
競争社会といわれる現代を生き抜くために
必需の事なのかもしれませんが
何かが引っかかってしまうのです。


私は共産主義者でも、聖人でもありません。
相手と対等である事に、何にも益して
安心感を覚えます。
その条件が整って、初めて口篭る事無く
なんでも主張できるように感じています。


第44回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

静かな繰り返し

今日も、何事も無かったように一日が始まる。

結論が真っ先になりましたが、その事が何にも益して
有難い事なのだと思っています。

私は消極的な性格のせいか、あまり変化を好みません。
同じ繰り返しなんてつまらない。
それが若者の姿なのでしょうが。
本来生活の目先を変える事は必須なのかもしれませんが
あまりにも波乱万丈の生涯を送ってきた者にとっては
もうそれだけで 十分すぎるくらい変化を楽しんできました。


と言うより異常に困難に立ち向かう事が
嫌になってしまったのかもしれません。
現状の生活にどっぷりと漬かって
静かに自分を取り戻したいと思っています。


余談になりますが このMy Heartは、
鈍りがちな頭を働かせ整理して、多少なりとも
自分の前進を試みていました。
ある意味で生涯学習の一環かもしれません。
考えている事を整えるのは
ほんのちょっと気持ちの良いものなのですよ。


第43回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

選択

人生で選択を迫られる場面は多々あると思います。

その辺りの機転の利かせ方が人生を大きく左右するのかも知れません。
しかし今回はそのような差し迫った話でなく
もう少し人生の心のゆとりに付いて考えてみたくなりました。

とあるテレビ番組で、小さな島の、そう佐渡島の
1/4の面積だそうですが そこの生活が描かれていました。
あまり今回の話に関係ないのですが
その島は中部イタリアの西側に存在し
ナポレオンが幽閉された事で有名になった島だそうです。
石畳の急坂を登り、たどり着いた
それほど大きくない家の壁越しに眼下の海面を眺めると
とても美しく、そしてなんともいえない懐かしさがこみ上げてきました。
およそ超文明社会とはかけ離れた
心をくすぐり揺さぶる景色でした。


石積みの壁は海風にさらされ、でも強い日差しで
からからになって 塩を吹きそうな
何とも穏やかな時間が流れていました。


私は幸か不幸か都会のあちらこちらに
移り住んだ経験を持っています。
ビルの谷間のような所もありましたし、閑静な
ちょっと洒落た住宅地にも暮らした事があります。
買い物をするにも、気を紛らわせる事も
何とも便利な環境で そこで培った
ずぼらな生活は、かなり長い事私の体から抜けることはありませんでした。

現在は都心から大分離れた、ちょっとした小田舎ともいえそうな場所に住んでいます。
とは言っても生活に必要な物は皆手近にそろい
とりあえず不自由は感じていません。
そんな毎日の生活の中で、例の番組を見てしまったのです。
どのように考えても超便利な生活とは言えそうも無い
静かな生活に 強い憧れすら感じてしまいました。


今の自分に、その様な生活が出来るのだろうか?
と思いつつも、その静かな時間の流れが
頭から抜けなくなってしまいました。
多分子供の頃過ごした海沿いの高地で
暮らした事が 体に染み付いてしまっていたのかもしれません。


自分の残された人生にはどちらを選択するのが妥当か?
ついつい訳もなく考え込んでしまいました。
そんな選択を頭の中に漂わせながら
ユラユラとした日々を過ごすのも
悪くない選択なのかもしれません。


第42回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

心の友

友達とは、何時の世でも大きな力になってくれます。

実は私の方で一方的にその様に感じているだけなのかもしれませんが
それでも、その方に最近何度も励まされました。

一言も具体的な励ましの言葉を
頂いたわけではないのですが、その方の生き様を見ていると
自分の、何と情けない生き方を反省してしまいました。
その方は、このウエッブ界でも良くお見かけする方で
現在闘病しておられます。
毎週末には病院から自宅に戻ってこられ
私の拙いブログにもコメントも寄せてくださいました。


こんな事書くの、もしかして
差しさわりがあるのかもしれませんが、
私としては、どうしてもその現実を書いてみたかったのです。
きっと、このMy Heartも、いくばくかの皆様は
見てくださっているのだと思います。
その方々に、自分の真の気持ちを
どうしてもお伝えしたかったのです。


最近、落ち込む事が多い毎日でした。
こんな時期だから、決して私だけではないのでしょうが
事が重なると、ともするとめいりがちになってしまいました。

その様な中の、貴重な友の一言
現実にどれだけ私に生きる力を下さっているのか
改めて、ひしひしと感じてしまいます。


第41回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

ゴーイング マイウエイ

読んで字の如し。

こんな単純な事を、何故躊躇するのでしょうか?
世の中と言うものは係わり合いの糸で結ばれていますから
個人の考えだけではどうにもならない事が
沢山あるのかも知れません。

もしかすると大半の人は、とっくにそんな事
実施できていると 言われてしまいそうです。
ところが 私のように未だに躊躇しながら自分を押し殺して
生活している人間だって居るのです。

私には 決して目指す方向が見えていないわけではありません。
むしろ日々の生活で、そうすべき
その方が絶対にベターだと言えそうな事は沢山方法論を持っていますが、
なぜか 自分の意見が引っ込み思案になってしまいがちです。
其の事って、決して自信の無さ故とは思っていません。
むしろ自分の辿ってきた道に胸を張れる事さえ
沢山見出せます。


私は自分勝手な人間が大嫌いです。
人の状態や立場を無視してしゃしゃり出てくるやり方は
なんとも腹立たしいのです。
そんな気持ちが 自分を引っ込み思案風にさせてしまっているのでしょうか?


でも、直接係わり合いを持たない部分において
ゴーイング マイウエイを実施する事に決めました。
人が何と言おうと、どう思われようと気にとめることはやめにしました。
この、My Heart 集を著す事も その現れです。


第40回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

今日のミーティング

たった3人しかあつまりませんでしたが、今日は定例のミーティングがありました。

解決したい項目は山と積まれているのですが、
今回の中心は 難病、筋ジストロフィー末期患者の為の
生活サポート器具の開発構想が練られました。
有名な科学者 ホーキンズ博士が
犯されている難病です。
全身の筋肉が次第に衰え、やがては
眼球と一部の機能を除いて役立たなくなり
そして、もっと突き進むと 外見は
まったくの植物人間になってしまいますが
人の意味、思考だけは生き続けるようになるのです。

医療現場から、最先端の現状支援器具の紹介もありました。
未だ未だ未開の分野です。ほんの僅かでも
体の一部が機能する内の介助器具は
既に存在しますが、生きている限りの
すべての状態での解決には
まだ時間がかかります。

自分にも解決策の
ささやかな手助けが出来そうで、
課題の一つ一つを噛み締めました。


第39回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

お疲れ様(軽い話題)

日本人の挨拶の響きは
とても人間的で心が通い合うものだと思っています。

諸外国の事情は ほとんど解りませんが、日常の習慣から生まれる
他人への思いやり、何時聞いても気持ちの良いものです。
単に習慣化、ひとりでに口をついて出る言葉なのかもしれませんが
長年の習慣から生み出された 素晴らしい動作のように感じていました。

子供の頃から聞かされていましたが、
挨拶一つ出来ない人間は 決して一人前になれない。
生活で必須のコミュニケーションの地ならしの役目なのかもしれません。

今日こんな話題が書けたのも
外に出る機会が出来、必要に迫られたとは言え
コミュニケーションが十分に取れた結果なのだと思います。
意思が通じ合う事の 素晴らしさ、何と心地の良い事。

こんな単純な事が滞った時、人生は闇夜になります。
あなたは、ご家族と、外部の人と、大切な人との
コミュニケーションはとれていますか?

一言、「今日は」と言えたら
後は、すべて解決するのだと 思っています。


第38回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

一瞬

一瞬の閃き。一瞬の不安。
時と言うのは、一瞬の集合と考えれば良いのでしょうか? 
一々そんな事を気にしていたのでは いけないのかもしれません。

でも私には、どうしても一瞬を切り取る事の魅力を捨てきれないのです。
そう、写真という物を思い出してみると
何百分の一かの瞬間を、場合によっては2000分の一の出来事も
残せるのですが、写真にはどんなに短時間でも 時間の流れが伴います。
私が捨てきれない一瞬には まったく時間の存在がありません。

解ったような事を言って、その実態は
何の意味もなさないのかもしれませんが、

こんな説明をすれば、解ってもらえるでしょうか?
この所毎日ホームページの次に出てくる絵には
よく見ると、必ずある一瞬の時刻が刻まれています。
その前でも、後でもない ずばり其の時間に
心に思い浮かんだ形を残しています。
実際にそれを描くには2〜3分くらいは掛っていますが
思い付いたのは常に時間の無い一瞬です。


小学校の頃だったでしょうか。
理科の授業で先生が面白い話を聞かせてくれました。


ある瞬間に放った矢は、目標の的に何時まで経ってもたどり着けないと言うのです。
ある一瞬に矢は的までの距離の1/2を進み、次の一瞬には
残りの距離の又1/2だけ進み、次の一瞬も同じようにして
何時まで経っても的には矢がささりません。

実際には矢を目で追う時間も無く
的に突き刺さるのですが、一瞬の積み重ねと言うものは
時間が存在しませんから 何時まで経っても堂々巡りなのかもしれません。

一瞬とは、もしかしたら時間の経過の上で
初めて意味を成すものなのかもしれません。
子供じみた、ばかげた話を持ち出しましたが、
私にとって、やっぱり一瞬は
とても貴重なのです。


第37回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

無知をさらけ出す?。

第35回目原稿で、「公平と、平等」に付いて
取り上げました。実はそれをテーマにしていた
ブログを再び見返して 私の考え方がもしかして
正反対であったかもしれないと気付いたのです。


人の意見を鵜呑みにして 単に慌てふためいているわけではありません。
ただそこに現れていた事は 私の理解とまったく逆でした。
あのような大きなテーマに普段からの知識も無く
立ち向かった事自体に問題があったのかもしれませんが、
自分としては、仮に考え違いをしていたとしても
その問題を取り上げた事に付いて
今でもまったく後悔していません。

負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、
いつも素通りしていた大切な事柄を
少なくても見直そうと考えたのですから。

追伸
日本語の文言の解釈の間違い?だけかもしれませんが
やはり蔑ろにしてはいけないと思いました。
まずは図書館にでも通い研鑽を積まねばと思っています。
この場所には、コメントを頂く事はできませんが
ご容赦ください。


第36回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

知足

足るを知る。と読んで下さい。

私が現在結構気に入っている言葉です。
読んで字の如く、満ち足りた気持ちを理解する事です。
考え方によっては、もうこれ以上の発展を拒否しているようにも聞こえそうですが
違います。


上達は 不足感だけから成るものではないと思っています。
満足とは、満腹感とは違うはずです。


どうして急に こんな事を考えて見る気になったのでしょうか?
身の回りは、物で溢れ、野望は際限なく生み出されていく
現状に ほんの少し嫌気が差してきました。
歳のせいでしょうかね。
幼い子供の内は、そんな事無関係で
かえって発達の足かせになるのでしょうか?


実は、自分の置かれている立場が正確に理解でき納得が出来るなら、
その人を「幸せな人」と呼ぶのだと思います。
究極の結果が その様にあるべきだと考えてはなりません。
流れ行く人生の中で、段階ごとに味わうべき感覚なのです。


第35回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

受け売りのテーマ

「公平と、平等」、
その様な事に付いて一度は落ち着いて考えてみたいと願っていました。
この記事は、とあるブログから 今得たばかりの知識の受け売りなのかもしれませんし、
正しい解釈をしていないかもしれません。

私が理解する所では、「公平」とは機会均等の結果得られる物であり
「平等」は事象の結果として釣り合いが取れている事を指すのだと思っています。

ハンディーキャップを抱えた人に対し 社会がどのように対処すべきかも
合わせて考えてみたかったのです。
私は 胸を張って健常人であるとは言い切れない人間ですから
多少は自分に対する弁護が含まれているかもしれません。

世の中は「公平」を必ず提供すべきだと考えます。

勿論健常者にも、ハンディーキャップを
持った人にも。現実にはかなり難しい課題ですが
それ無しに住みよい社会が生まれるとは到底思えません。
単に 互いに
足りない部分を補い合えばと言う事だけで、問題解決にはなりません。
ゴルフのハンディーの考え方とは違うように思います。
思考の出発点が完全に一致しなければならないのだと考えます。


もし一人の目の不自由な人と
健常者が 同じ信号で横断歩道を渡る事を考えてみてください。
その手をとって 安全に渡してあげればそれでよいのでしょうか?
それが「公平」な
結果を生むのでしょうか?
助ける、助けられると言う関係を、私は「公平」な結果とは
どうしても受け取れないのです。

それでは どのようにすれば良いかを問われるでしょうが、
実は、その時々に 今の命題を思い起こし 考えてみる
余裕をすべての人が持てるようになったら
きっと、かなり「公平」に近付くのではないかと思っています。
ただ考えただけで 本当に良いのでしょうか?


 頭の片隅にすらその様な考え方は
浮かんでこないのが大半だと思えます。

平たく言えば「思いやりの心」を持つ事でしょうか。


「平等」は、生きていく上で必ずしも絶対的な条件では無いように思います。
どのような事にも原因があって その結果が生まれるのでしょうから
それらが、まったく同じと言う方がむしろおかしな話なのかもしれません。


つまりは、「公平」と「平等」を取り違えてはならないのだと考えてみました。

テーマが大きすぎて、私のような凡人には
到底結論付けられませんが、世の中の風潮で
時々首を傾げてしまう事にぶつかってしまいます。


第34回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

十人十色、百人百様

こんな単純な事、未だ解らないのだろうか?
例え一卵性双生児でも 同じと考えてはいけないのだと思います。

当たり前の事が、何時までたっても理解できないから
自分と相反する考えからを 軽蔑し、批判するのでしょう。


正義って集約できる物なのでしょうか?
物事を、良い、悪い、良い悪いと どんどん淘汰していくと
唯一つの正解が残るのでしょうか?


よくよく考えてみると、結構難問である事がわかります。
一般に先進国では確固たる法律があり、
毎日の生活にはルールがあり、
だから安心して暮らせるのかもしれませんが
それって、実は物事の考え方を集約しているに他ならない事なのかもしれません。
個を殺す事が、全体の平和を守る唯一の方法なのでしょうか?


このような矛盾が生じた時 何よりも大切なのがバランスを取る事なのでしょう。
現代の世相はその的確なバランスが保たれているのだろうか?
私にはこのような大それた事象を的確に判断する力なんて
毛頭持ち合わせていません。
ただ、ただ叫びたいのは、自由思考の大切さに付いて、声を大にしたいだけなのです。
歴史が物語るように 弾圧によって物事は何も解決していないはずですから。


ずいぶんと 大上段に構えて話を進めてしまいました。
実は 言いたかった事は ほんの些細なお話です。
前項で説明した、人を惑わせるような
図形のお話をしたかったのです。



個々の図形に 決して説明書きを付けてはなりません。
百人百様で 何かを感じ取ってくれたら、
そして百の理解が生まれたなら、
それで 目的は達せられたと思っています。


第33回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

正直に

一年中、自分の心の底と違った生き方をしている事は
時に絶えられなくなります。

そこで、今しがた思い付いた事を実行に移すことにします。
ホームページの次に現れる場所に
その時々の気持ちを、心の赴くままに表現してみようと思ったのです。


これは決してアートでも 何でもありません。
接した時、皆様が感じた直感が
多分私の今の気持ちを素直に伝える事が出来るはずだと
思えたのです。

ここで言うホームページは以下のグラフィックが使われています。



第32回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

真心

こんな事に驚いていたら 今の世の中は渡っていけないのかもしれません。
でも ふと気付く他人の真心は 時として何にも変えがたい
力を持っているものだと再認識してしまいました。


本来、真心と言うものは差し出す方が意識するのではなく
受け手のハートに感じるものだと思います。

個人的に私は最近 心を痛める事が重なっていました。
そんな中、日常使っているパソコンシステムのLANが
壊れてしまったのです。数台のPCをその様な形を前提に使っていたので
いざ機能が使えなくなると、本当に何も出来なくなる
と言ったらオーバーかもしれませんが、少なくても新たな事を
何もやる気がしなくなってしまい、そのようなな日々が毎日
流れていったのでした。


このような場合、何方もまずサポートセンターに問い合わせ
問題点の把握をして 段取りを追って問題解決に結び付けていくのだと
思います。勿論私もその様に努力をしました。
図書館にも通い、普段は見向きもしない専門書を
片っ端から読み漁り、お陰で新たな知識は大分得られたのですが
問題は一向に解決せず 時だけが悪戯に流れていきました。

毎日サポートセンターに電話をかけるのが日課となり、
堂々巡りの繰り返しであったのですが、ある日
先方から私宛に電話がありました。
こんな私によっぽど手を焼いたのでしょう。
余分な物をすべて外して、このハブ(LANの接続機器)だけを使って
もっとも単純な構成を試み、各メーカーのサポートセンターに
問い合わせてみては、と言う提案でした。


翌々日、私の手元には 真新しいハブと言う機器が届いたのです。
その提案により、解決の糸口は一気に見つかりました。
勿論現在はすべて元通りに改善し、何も無かったように
過ごせるようになりました。


ここで話している事を、皆さんは当たり前 以上には
感じられないのだと想像します。でもそんなあたりまえの中に
私はきらりと光る物を感じてしまったのでした。
先方はプロのサポーターですから解決の段取りや
糸口を提供する事は マニュアルに基づく日常作業なのだと思えますが
あの一歩踏み込んだ提案が無かったら 到底今回の苦痛は
取り除く事ができなかったのだと思いかえしています。

世の中には 後一歩の努力と言う事柄が沢山存在します。
その一歩を踏み出せるかしないかで まったく白黒が明白に分かれてしまうのです。

ここで何が言いたいか、
欲する者にとっての 後一歩の後押しは 何にも変えがたい
ものだ、と言う事です。
与える側の感覚では ごく当然の行動であっても その感ずる差は
想像を絶するような隔たりが存在します。

日頃の自分の行動において そんな単純な事実をどれほど意識しているのでしょうか?


第31回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

正夢

テレパシーとか第六間とか、私はにわかにその類を
信ずる気にはならないのですが、この長い人生で
2度ほど自分ではどうしても説明の付かない体験をしてしまいました。


その一度目は未だ私が幼かった頃、自分の事をとても可愛がってくれた
祖母にまつわる話です。
実は私にばっかり優しかったというのでなく だれにでも
怒った顔を見せたことの無い人でした。
余談ですが、若い頃は絶世の美女だったそうで、何とか小町と
皆からささやかれていた話を親戚の人から聞いた事があります。
つまり私には母親と同等に大切な存在でした。
物心付いた時はすでにかなりの年齢に達しており
白髪がとても綺麗な人でした。

かなり長い事私の家に同居していたのですが
ある時田舎へ帰って行きました。


そんなある日、私は親に連れられてバスに乗っていたのですが、
座席に座って何気なく前の席を向くと、私の大好きな
祖母が座っているのです。このような時間に
そこにいるはずもなく目をこすりましたが
どうしてもその事が気になってなりませんでした。

そして家に帰ると悲しい知らせが待ち受けていました。
あの祖母が他界したと言う知らせでした。
虫が知らせるとか、テレパシーとか
いろいろ想像はしますが、今現在になってもあの時に見た
映像を説明できません。


時は半世紀以上経ち先ほど体験した事です。
私はよく夢を見る方なのですが、今回の映像は
実にはっきりしていました。
私が気に入ってたびたび訪れていたブログがあります。夢の中で
モニターに向かいそれを注視していました。
その記事はしばらく音沙汰無かったのですが、夢の中では
はっきりと新しい記事を二つ読みました。その一つには写真入で
投稿されていたのです。

今日も忙しく一日が始まりそんな事はすっかりと忘れていました。
一段落して、ふと今朝の夢の事を思い出し モニターに向かって
その気になるブログを覗いてみました。


まさかと思い、自分の目を疑ってしまいました。
そこに見たのは新しく追加された二つの記事があり
その一つはモノクロ数枚の写真入で載っていました。
写真の枚数までも 夢の中の事は覚えていませんでしたが
モノクロの写真はまさしく今朝ほど見た内容と瓜二つで、
本当に怖くなってしまいました。



自分を誘導するようにモニターの前に座らせた見えない力に
血のけがひいてしまいました。


第30回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

それぞれの思い

どのように近しい人でも勿論自分の身内でも
ある時点を取っての思いはそれぞれだと思います。


なぜ当たり前の事をここで取り上げたのでしょう。
私はこの歳になって始めて、他人の書いた文章に
感動するようになりました。


勿論過去において星の数ほど読んだ本の中から素晴らしい
宝石のような言葉も見出しましたが
今回は作家でも特別でもないと思われる
見も知らぬ普通の人の書く文章に惹かれてしまったのです。


取り立てて気負った内容ではなく、話題そのものは
当たり前のものでしたが、その切り口
つまり目を向けるポイントやその感性に
釘付けになってしまいました。


そのように感じたのは、私だけかもしれません。
さて、その方は現在多分苦悩の中にあると想像します。
私自身も日々の生活の中でずいぶん自信と言うものを
無くしてきました。加齢による体力の減衰が原因です。

ところで私はその方と何とか意思の疎通を図りたいと思っていました。
現在は情報社会ですからその気になれば
いくらだって考えを交換する機会そのものは
存在します。でも私にはそれが出来ないのです。
その方の深層の思いが 私には到底正確に読み取れないからでした。


解らないから良いと言う事があるのかもしれません。
「おそらく」と言う程度の想像を頼りにするだけでは、一歩も進めなくなってしまいました。


人間とは自己中心的な生き物ですから常日頃は
相手もおそらく自分と同じ考えをしているのだろうと
勝手に想像しがちではないでしょうか。

それが今回は、どうしても相手の気持ちを
自分に同化してしまう事ができないのです。


それだけ研ぎ澄まされた何かと
切羽詰った事実に、どうしても打ち勝つ事ができないでいます。


第29回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

わが身、一番

それでよいのですよ。但し手前勝手とは違います。
勿論あなたも、そして隣に居る人も、皆そのように考えているはずですから。


一つだけ忘れて欲しくない事は、そんな隣人の気持ちも
思いやって欲しいのです。

手前勝手というのは、他人の気持ちを無視して、自分の気持ちばかり
主張しようとする事です。

私が幼い頃学んだ学校は結構しつけが厳しく、
まず皆の気持ちを考え物事が円満に運ぶようにと
言われていたような気がします。私の思い違いかもしれませんが
その考えは長い事 私の考えから抜けませんでした。

だれだって、どんな賢者だって やはり我身は一番可愛いはずです。
それが自然のあり方だと思います。
その事を否定して、自分を押し殺していた事に気が付いてしまいました。
そうなんです。自分の正直な気持ちを押し殺すという事がいけなかったのです。


長い事、世の中を渡ってきて やっとたどり着いた境地です。
ただただ自分が消極的で、弱気であっただけだ と言う事を。・・・・・・


第28回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

今は、種を蒔く時

私の歳?
そんな事 どうだってよいじゃあないですか。
気が付いたのです。種を蒔かなければ、実のならない事を。


将来への種まきを忘れた時、その人生は不毛となるのでしょう。
ところで、将来の到達点に何を目指すべきなのか。


人それぞれでしょうが、私の場合は?
その疑問の回答を求められた時、はたと困ってしまいました。
おぼろげには こんな風になりたいという考えは
在るのですが 具体的な回答となると
言葉をにごらせざるを得ませんでした。


ちょうど良い機会だから 一緒に考えて見ましょう。
幸せな生活をしたい。だれもがそう考えるのでしょうが
なんとも抽象的で掴み処がありません。
でも私に、これだけは言えるのです。
何かをやり抜いてみたい。挫折することなく
とことん追求してみたいのです。


そこで今、その何かを明らかにする事は重要ではないと思います。
つまり長く続けられる事、やっている事に生きがいを感じる事、
そして世の中の為になる事なら 何でも良いと考えます。
人のためになる事、なんて意識する必要は無いはずです。
良い事に突き進んでいけば、ちゃんと結果は付いてきます。

でも、どんな良い事をしようとしても
事前の準備、種を蒔かなければならな事を忘れてはいけないのです。
同時に種蒔きの大変さと、その充実感を
味わってしまった私が、ここに居ます。


第27回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

40%の可能性

ブログどですかデン鉄 日記(http://gallopinggoose.at.webry.info/)
の作者、gallopinggooseさんに紹介していただいた
「スペースカウボーイ」のDVDを見ていて、
ドラマの中で使われていた とても良い言葉を
思い出しました。


ドラマの大まかな内容は元NASAで勤務していた4人の宇宙飛行士が
退職後数十年を経て 年老いたにもかかわらす
特殊ミッションを背負って再びスペースシャトルで宇宙へ出向き
困難な任務を完璧に果たして地球へ帰還できた。
という粗筋です。私にはとても面白く
見入ってしまったのですが、
繰り返して再生している内に、あの言葉
「40%の可能性」の存在を見つけてしまいました。

昔から、私にはこれから立ち向かう難問解決に対し
成功の確立を何時も意識していたのです。
対外未来の出来事は予測すら出来ませんから
何時も半々の確率、つまり50%の確率を
頭の中で描いていました。でも時には弱気になって
10%から20%の確率と呪文のように唱える事もありました。


映画「スペースカウボーイ」の中でたびたび使われた
「40%の確率」の先にあった難問に対し
私だったら、5%とか10%の成功率と、いつものように
弱気な事を考えてしまったのですが
繰り返してその言葉を聴く内「40%の確率」
が 実に適切な判断であるように思われて来てしまったのです。


そうなんです。半々よりも 控え目な予想ですが、
40%の成功率とは かなりの可能性を内包している事に気付きました。
決して楽観的でもなく 慎重に物事を判断し、
なおかつ十分な夢を与えてくれる数字、
「40%」が とても頼もしく思えてきたのです。



第26回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

THINK

この言葉は、世界のIBMの合言葉ですね。
多忙な人間は考える事が多義に渡っているのかもしれません。


ところで私は、ボーっと時を過ごすのが大好きです。
考えに考え抜いて判断した事が最善の結果を生むのでしょうか。
時の流れるままに、浮き草のように自由な人生を送るのも
又良しとしなければならないと思っています。


私がもっとも大切だと思っているのは自由である事、
身も心も解放された無限の空間を常に感じ取っている事だと考えています。
現代人は物事に縛られ、その制約された状態から
発想しようとしているのではないでしょうか。


ゆがんだ空間からは、決して真実は見えないものだと考えています。
どのようにしたらひずみの無い世界を見つめる事ができるのでしょうか。
知識を極めたり、信ずる物をとことん突き詰める事も
何がしかの効果は生むのでしょうが
もっと簡単な方法は、無我の境地を掴む事なのだと思えてなりません。
昔から、賢者は禅やヨガによる瞑想を経て
その境地を悟ったと言います。

現代の私達は、凡人の私はどのようにして自由を取り戻したら
良いのでしょうか。情報社会の雑音をすべて断ち切って
ただボーっと時を過ごす術を知る事が最善策のように思えます。


実はこの原稿を書いている私の頭の中には
何もまとまった考えがありません。
たまには結論まで出来上がったストーリーを考えるのでなく
指の赴くままに原稿を書いてみたいと思いました。


第25回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

ささやかな楽しみ

このF'Trackサイトでは、ホームページからそれぞれ
デザインが小刻みに変更されています。
これらは、基本的にサイトアクセシビリティーを
改善しようと やっている事なのですが、
時としては度が過ぎて 蛇足の部分もあるかもしれません。



でも、表現方法を少しずついじって楽しいのは
何時も自分自身である という事ともわかっているつもりです。


何時かは、どなたかの目に触れる事を
夢見て、こんな些細な事を楽しんでいました。


第24回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

単純と複雑

このごろテレビを見る機会が増えました。
先ほど見た番組は、日本在住で世界各国の主に留学生が
日本文化に触れ、それをどのように感じたかと言うトーク番組でした。


私が見た時は ちょうど日本の食文化に付いての意見が交わされていました。
私は純粋な日本人ですが、彼らが感じた点のいくつかに驚かされてしまったのです。
日頃如何に日常に埋没していた事か、改めて気がついたのですが、
まず日本の台所の狭さと、その多種多様な道具類と食器の存在、
そして板前さんが使う包丁の種類の多さ、
こんな当たり前の事を改めてびっくりしてしまい、又各国の生活習慣の紹介で
その単純である事に2度びっくりしてしまいました。

日本の食文化は明治になって急に広がっていたのだと考えられます。
世界各国のお国自慢の料理が、毎日のようにとっかえひっかえ出てくる
日常を何の疑問も持たずに生活しており、外部の目から見た
素直な目と、各国における食文化の紹介を聞いて
思わず考え込んでしまいました。


我家の台所も狭く、そして食器の多さに改めてあきれてしまいました。
それぞれの料理に適した器を毎回選び、味と共に
その感触や美的な鑑賞まで複雑にやってのけていたのです。
一般に家族の茶碗は皆種類が違うはずですし箸も然りです。
この複雑さが日本の食文化その物なのでしょう。


西洋でも食器の種類こそありますが、皆がおそろいのものを使い
ナイフやフォークは当然のようにおそろいの物を使います。
場合によっては食べ物の種類にかかわらす
同じ食器をいろいろと使いまわしているではありませんか。


今回気付いた 食文化にかかわらず、
私は日頃単純である事がもっとも合理的で問題も起こらず
整然とした美が感じえるものと思っていましたが、
今回の番組に接して 和食の多様性と
その食器に使われ方に改めて納得してしまいました。


そして、各種の素材を生かしきる包丁の多さに
板前さんのこだわりの大切さも 合わせて理解できるような気がしてきました。


シンプル イズ ベスト?・・・・・・・・


第23回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

どうしても取り上げたくて

少し以前、私が訪れたブログに、とても良い話が載っていました。
その方が飼っているネコちゃんのお話です。


とても可愛がっているペットです。
普段は何時も膝の上に登って来て、ご主人様の邪魔ばかりしていたようでしたが
ある時、その方が家を空ける事になりました。
お忙しい方で、かなり疲れた身に鞭打っての出張のようでしたが、
その折、例のネコちゃんがゴキブリを銜えて来て それをご主人様が
何時も手元に置いて使っていたコップの中に
ぽとりと落としました。未だ新鮮で、虫の息のようでしたが
新鮮その物でした。

何のために?
そのゴキブリはネコちゃんにとっては 貴重な蛋白源で、
未だ生きている 新鮮な食料でした。


このお話を見て、皆さんはどのようにお感じになりましたか。
その方は、勿論ゴキブリを試食はしませんでしたが、
そのプレゼントをされた時の気持ちが手に取るようにわかります。


例え動物でも、以心伝心?


そのような事を言いたいのではありません。
心を込めた贈り物も、相手の立場にとって まったくそぐわない、
むしろ毛嫌いされる場合がある事は、どなたも
お解りでしょうし、そのような経験をされた事もあると思います。


そのような時、送る側の気持ちをどれだけ深く
思いやった事があったでしょうか。自分を振り返っても
ただただ軽蔑のまなざしで、そのプレゼントを始末してしまった
事を思い出します。


あのネコちゃんの善意の行為、もうお分かりですよね。
私が訪れたブログのありかは、あえて伏せる事にします。


第22回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

サンダーマウンテン、トライ2

同じ場所のトンネルを掘り広げエンドレスを一周
できるようになりました。カメラも変えてみたのですが、
たいした改善にはならないようです。



第21回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

一度は説明しておかないと

F'TrackホームページにあるMy Heartのイラスト
変だと思った事ありませんか。ある時からこのように
変更したのですが、亡霊がまとわり付いているようで
自分としても、今後どうしようかと考えていました。


ご存知のようにSanta Feのイメージキャラクターはインディアンです。
南部のインディアン居留地を貫いて走っていたのだから
当然の帰結としてこれがシンボルに選ばれてのでしょう。
看板列車にも このチーフの名前を持つ物が沢山あります。


私が始めてアメ鉄を知るようになった切欠は絵本で見た
あのウォーボンネット塗装のジーゼル機関車でした。
それ以来どの鉄道より、ATSFが好きになってしまったのです。
我家のLOFTにあるレイアウトもATSFを夢見ながら作りました。


そのような訳で、My Heartにはチーフの面影が深く刻まれている訳です。
どうぞ亡霊と言わず、皆様に親しんでいただけると良いのですが。・・・・・・


第20回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

動画再生、再挑戦

前回不成功に終わった動画の再生を再び試みてみました。
下のアイコンをクリックしてください。今度は上手く行くかな?

カメラをShayに取り付けて、線路を回りました。
トンネルで、遭えなく It collides to a rock!


素彫りのトンネルの岩肌を削り取って何とか線路を一周できるように
次回挑戦します。


第19回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

アーツアンドクラフト運動

Have Nothing In Houses
That You Not Know To Be
Useful Or Believe To Be Beautiful.

William Morris


役に立たないもの、
美しいと思わないものを
家に置いてはならない。

ウイリアム モリス

アーツ&クラフツ展へ行ってきました。
ウイーン工房、民芸まで約280点一驚展示と言う物でした。
見慣れた柄のテキスタイルの現物も素晴らしかったのですが
私には、彼の手がけた家具にやはり目が行ってしまいました。


木部が黄色に塗られ、座面のクッションが紫色のベンチに
目が釘付けになりました。
中でも一番感動的だったのは、彼のデザインした椅子の現物に
実際に座ってみることができた事です。
主催者のなかなか粋な計らいでした。


第18回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

明日から11月

月日の経つのは早いもの、つい昨日まで暑い日が続いていたと思って
カレンダーを見ると、今夜はその一枚をむしりとらなければならないのです。
今年はどんな年だったのでしょう。
階段の窓辺にある人形を見て思わず振り返ってしまいました。


第17回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

ちょっと良い事

時折頼まれ事をやっていいるのですが、今回は看板の
図柄データ作りでした。それにはドクロマークが付いているのです。


どのような目的に使われると思いますか?
世界には、恵まれない生活をしている民族がまだまだ沢山います。
子供の食料に事欠き、地面を安全にすら歩く事ができない
場所が沢山残っているのです。

私達は普段そのような事とは縁遠く生活していますが、
あの看板、道端に立てて地雷の存在を警告する物なのです。

自分の微力が、ほんのわずかでも そこに生活する人の助けになったら
と願いました。ベトナム向けの物です。


第16回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

変わらぬ魅力

音楽を愛する方は、非常に多いのだと思います。
ジャズにクラッシック、ホークに演歌、歌謡曲に民謡まで
どれをとっても基本は同じように思えます。


私の場合は、クラッシック、フォークソング、ジャズの
順に好きでした。その昔オーディオブームがありました。
くしくもその当時はオーディオメーカーに勤めていましたので
本当に身近な存在だったのです。


それよりだいぶ以前からオーディオ機器は集めだしたのですが
知らぬ間に泥沼に嵌っていました。
リニアトラッキングのアナログ大型プレイヤー、オープンデッキ
プリアンプにメインアンプ、カートリッジに至っては
その時の気分でずいぶん集めました。
勿論たまには生演奏も楽しんだのですが
時代はめぐり、デジタルオーディオ全盛の煽りで
CDを一枚一枚買い足すのが楽しみとなりました。

薀蓄を並べ音質にこだわった時期もありましたが
今では気楽に聞ける、慣れ親しんだ音が好きです。


このシンプルな構成でもう何十年楽しんできた事でしょうか。
メインアンプに単体アッテネータ、当時は結構派手な音がしていましたが、
今ではめっきり大人しくなったスピーカー、
再生機器はその時代に合わせて変わって行きました。
今はいつ壊れるかわからないがたがたのCDプレイヤーを使っています。

そしてつい最近、今更になってやっと大画面液晶テレビも追加されました。
めったにテレビを見ることも無かったのですが
フルハイビジョンの綺麗さに時折それを覗くようになりました。
今日はショパンに付いての番組を見ています。


第15回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

参ってしまう事

世の中は広い、そんな事解りきっていますが 最近
驚かされる事がたびたびありました。


他人より秀でた技術力や知識を持っている、
もう そんな事には驚かなくなりましたが、
人様の感性に接する時 まったく言葉を失った事が
何度もありました。


共感出来る事は、この感性の一致が絶対条件のように思えました。
第一印象とか、第六感 皆 研ぎ澄まされた感性のなせる技のかもしれません。
どのようにしたら感性を磨く事ができるのでしょうか。


それは唯一つ、事物に感激できる心の広さを保つ事だと思っています。


第14回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

ブログの効用

このサイトにはNew F'Trackなるブログが置いてあります。
昨年私が経験できたアメリカ鉄道視察の一部始終が
綴ってあるのですが、毎晩沢山の方々が閲覧してくださり、コメントまで
残していただけて本当に嬉しく、幸せ者だと思っていました。
その投稿画面ではブログのアクセス数を見れるのですが、
最近ちょっと怖くなってしまいました。


勿論無差別な方に見られるウエッブ上に公開しているのですから、
それなりに気を配っているつもりですし調べたり
何回も校正もしているつもりでした。


暇が出来るごとに次回の写真や原稿を準備している訳で
私には必死の行動です。そこまでとは思いますが、
とても素晴らしいコメントや納得できる内容をいただくと
ついつい力が入ってしまいました。


このブログを読んでいただいた方からなのでしょうか。
最近 再びアメリカ旅行のお誘いのメールをいただきました。
その方も素晴らしいブログをお持ちで、とても参考にさせていただいていたのですが
あまりにも自分には敷居が高すぎて
今回の素晴らしいお誘いもご辞退してしまいました。


第13回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

写真趣味

このサイトの宣伝になりますが、サイトマップの最後に
My Photoなるページを追加しました。
何も説明が無くただただ撮り溜めた写真が並んでいるだけです。
良く考えてみれば撮った写真なんて、他人様に見ていただいたって
何の魅力も感じないのかもしれません。ほとんど自己満足の世界ですが
撮影現場の思い出と、過去に自分がやってきた行為の記録として
そこに載せる事にしました。


時々は新しく撮影した物も追加していくつもりです。
常に心の目を研ぎ澄ませておきたいのです。


第12回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

なかよし特急

第4回目原稿で取り上げた「なかよし特急」のあらすじを紹介した
ページを見つけることが出来ました。
http://www.railhobbies.com/100books/books009.html

それを読む内に、次々と過去の記憶がよみがえり
表紙の体裁共相まって、至福の時を過ごす事ができました。
ネット上で見た何処の古本屋でも売り切れ続出のようで
手元に置く事は吐ないそうもありませんが、
今回得られた情報だけで とりあえずの気持ちが収まりました。


絵本一冊を追い求める 年寄りが居たって良いじゃーありませんか。


第11回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

ことわざ

昔から伝わってきた、特定の意味を内包している言い回しが
ことわざの定義と言えるでしょうか。

実は私宛のメールで、その言い回しの間違いを指摘されました。
初回原稿の「蟻の魂」と言うタイトルの原稿に使った言い回しで「一寸の体にも、
一寸の魂。」と書いてしまいました。
ご指摘の通り「一寸の虫にも五分の魂」が正しい表現です。

昔から良く聞く言葉、つまりことわざとして
記述しましたので、
不適切な表現でした。訂正して間違いを謝ります。
言い訳ですが自分ではすっかり「
五分の魂」と
書いたつもりでいました。しっかりと校正していない証拠です。
それに未だ「一寸の体」と「一寸の虫」と言う言い回しの違いが残りますが、
これは私のまったくの記憶違いでした。


その原稿の、私が言わんとした事と「 一寸の虫にも五分の魂」という
ことわざの関係が不一致であるとも書かれていました。

私の記述意図は、
社会の中の一個人は蟻よりもなお小さな存在だが、その体に秘めた思いは
どんなに小さくても存在し、又その事がとても大切な事として感じている。
と言った内容を、そのことわざを使って表現したかったのです。

言葉を自由につかさどる事ができる
 コピーライターといった職業は
憧れであり、私にとって もっとも苦手な分野でしたから
常日頃、あえてその真似事をして努力を重ねているつもりでした。

しかし 真実の心の内を伝えるには
その技量よりもっと大切な何かがあるように思っています。

どうか不完全な人間に「物申すな」と詰め寄らないで下さい。

忌憚の無いご意見を、決して拒む物ではありませんが、出来ましたら
掲示板等で堂々と私の間違いを指摘してくださいませんか。


第10回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

コミュニケーションの難しさ

意思伝達の難しさを感ずるのは今も昔も変わりません。
人類は単独では生きていけない動物ですから
意思伝達は死活問題です。


勿論日々の仕事の中でその技術を行使していると思いますが、
何か物足りないと感じた事はありませんか。
一般の知識を持った大人なら必要最小限は問題なくこなしているでしょうが
心の奥底にしまわれた 真の伝えたい事まで
果たして伝わっているでしょうか。


言葉の表現力の駆使、体全体で伝えようとする事を意思表示する
のも有効な方法かも知れません。未だ言葉を操れない幼児の
態度を見れば頷けます。


その他にだれでもできる努力は、何度も同じことを繰り返して
伝える事かもしれません。くどいと言う事にもなりましょうが
意外と良い方法だと私は思っています。
積み上げの努力です。


第9回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

平凡な生活

非凡と平凡はどちらが良いのでしょう。やはり頭脳は非凡な方が
良いのかもしれませんが、毎日の生活にかぎっては
やはり平凡な生活がベストだと思っています。


活動的な方が、このような話を聞いたらがっかりするかもしれませんが
私にはそれが一番合っていると思えました。
振り返ってみれば結構波乱万丈を経験してきた事を
思い出します。安住の地とよく言いますが
それを得られる事は人生にとって何にもまして幸せな事かもしれません。

2008年の北京オリンピックに一人の黒人ランナーが
旗手を務めていた事を 思い出せるでしょうか。
大人数で参加したアメリカ団体の旗手でした。


彼の過去がテレビで紹介されていました。
ご覧になった方も多いと思います。
改めて解説はしませんが、数奇な運命の中で
アメリカ人の家庭にもらい子として
移り住んだ時
彼には長い期間どうしても養子であることが理解できず
使用人としての自覚を捨て切れなかったようでした。

故郷アフリカの為に、自分を引き取ってくれた
アメリカの為に彼の走る能力のすべてを捧げたのです。


第8回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

一見の価値

今回は、おなじみの YouTubeのちょっと良さそうな映像のご紹介です。


おなじみ EMD 7F Aユニットの実物動画?
3D アニメーションで、このような素晴らしい出来栄えは見た事ありません。


Histric Hot Spots Combo!
私の最も好きな時代です。


My Train 良いですね。


昔のSanta Fe TV コマーシャル集です。


ちょっとショック、一瞬びっくりします。


第7回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

不謹慎

サブプライム問題に端を発したアメリカの経済危機、限度無く拡大する
経済格差、想像を絶する高額な医療費、どれを取っても
現状のアメリカの病んだ部分を如実に表しています。


先ほどまでその辺の事情を紹介するテレビ番組を見ていました。
最近日本でも問題になって来ているワーキングプアー
の現状も取り上げられていました。
定着できる住処も無く、マンハッタンの高層ビル郡の下を走る
鉄道のトンネル内にねぐらを求めて生活している場面で、
トンネルの奥からAMTRAKのジェネシスが客車を従えてやってきました。


その光景を見て、なんと羨ましい生活環境事かと、思ってしまった自分を
省み、なんと不謹慎な事かと反省させられてしまいました。
このサイト内にあるブログでも昨年経験したアメリカ鉄道旅行の事が
面白おかしく綴られています。


あの経験は、自分にとって本当に満足のいくような
体験と考えていましたが、その背景にある隠された問題の
そこの深さを知らずして浮かれていた事、
なんと不謹慎なのでしょう。


その辺の事情をニュースなどで見聞きし
人並みには知っていたつもりですが、目を伏せていた
自分を発見してしまったのです。


第6回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

交通事情あれこれ

頼まれ事があり バスや電車を乗り継いで外出しました。
家を出てすぐに、大きな路線バスに交差点で出っくわしました。
高い運転席を見上げると、その運転手さんはうら若き女性です。
信号待ちをしている最中に別のルートからも小型の観光用バスがやってきたのですが
そちらも女性運転手でした。


特に驚いたのは最初に見た大型路線バスでした。
あの大きな図体をゆったりと操りながら、それ程広くも無い交差点を
渡って やがてかなたに消えていきました。
その堂々とした運転振りを見て、世の中はずいぶん変わったものだと
つぶやいてしまいました。今時珍しい事でもないのかもしれませんが
そのような状況を見て意味も無く安堵を覚えました。


男性専門と思われた職場への
女性進出、男女同権が
そのような形で現れるのも、とても良い事に思えます。
そのゆったりした運転態度を見ていると女性ならではの
安心感さえ感じてしまいました。

帰りの電車の中で、運よく座る事ができました。疲れきった体を座席に
沈めていると、かなり高齢の女性が2人連れ添って乗車してきます。
多分親子なのでしょう。もう席が一杯だねと、つぶやいていました。
それを見て、思わず私は中腰になり、その方の背中をたたいてしまいました。

「お座りになりませんか?」
まあ日本男児なら当 たり前の状況です。
でも私には今まで、何度もそのような状況に際し
対応しようとしたのですが、なかなか一声かけることが出来ませんでした。
タイミングを見計らっている内に、その目的を無くしていました。


今更になって、それが出来たのは
自分自身の衰えも知るようになり 人の痛みが
より切実に実感できるようになったからかもしれません。



第5回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

鉄道模型と海水魚飼育の関係

あの松謙さんだって、アメリカ型の鉄道模型と海水魚飼育に
強い関心を寄せているではありませんか。プレスアイゼンバーンの
松謙さんの事です。
まるで方向違いのこれらの趣味が、ある一点で
焦点を結ぶ事があるのです。


どちらの趣味も工夫を伴う物作りの面白さと
現実を自分の手元に置く事が不可能な
壮大さを内包しているからでしょう。
私にとってはそれらの彩の美しさに
目を奪われてしまったのかもしれません。


片や生き物相手と、まったくの無機質の塊を相手とする
構造的な違いはありますが、それらのエッセンスは
自然と融合して、まったく同一の視線の中に納まるのです。


第4回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

なぜアメリカ型嗜好なのか。

それを説明するには、長い過去を掘り起こさねばなりません。
私がそれに興味を持ち出したのはたった一冊の絵本を
手にした事から始まりました。


今思い出すと、そこには子供の絵本と思えないほどの素晴らしい
イラストが載っていたのです。あの有名なSanta FeのPA-1と
PB-1でした。それほど大きな絵でもなかったのですが
現在でもはっきりまぶたの裏に浮かびます。


もう数十年も昔の話ですが、NHKのラジオだかテレビ番組で
阿川弘之原作「なかよし特急」と言う連載番組がありました。


筋書きの詳細はすでにおぼろげになってしまいましたが、
子供たちが鉄道に興味を持ち出しのめりこんでいく内に
終にアメリカまで行く事になり憧れの列車に乗れたという筋書きでした。


まるで私の辿って来た道筋と瓜二つです。
当時はアメリカの鉄道の情報は希薄でしたし、渡米もままならない時代でした。
その後、そのストーリーが書籍にもなり 私も確か持っていたはずなのですが
どうしても その所在を思い出せません。


この 阿川弘之原作「なかよし特急」に付いての情報をお持ちでしたら
どのような事でもお知らせいただければ と思います。
メールでも掲示板にでも情報をお寄せください。


銀座天賞堂と、御茶ノ水の鉄道模型社の存在、さらにはお茶の水の交通博物館
小川町の科学教材社の存在は抜きにして考える事は出来ません。

天賞堂が
当時は輸出用と一部のコレクター向けに出していた
Fシリーズのジーゼル機関車はその作りの
確かさと、お世辞にも現物を的確に捉えていたとはいえないが
魅力的な塗装は小学生の私にとって神業に思え
それらのお店や博物館は、まるで玉手箱だったのです。


第3回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

やっぱり、嬉しいです。

このサイトにはブログと掲示板が、一つずつ備えてあります。
お陰さまで繁盛しているようで、今日は一つのスレッドに18個もの
コメントが溜まりました。又内容がリアルタイムで進んでいるようで
それを読ませていただくのが本当に楽しかったです。


日頃希薄感のある社会とのつながりがいっぺんに太いパイプになったようで
すっかり嬉しくなってしまいました。
実は今日は仕事が結構忙しかったので、掲示板の方にもいただいていた
せっかくの新しい情報に未だお答えできていません。


皆様、本当にありがとうございました。今日は嬉しく、実に充実した一日でした。


第2回目原稿(古い原稿は下へスクロールして見てください)

真似事。

昨日はボランティアの真似事をしてきました。
地域の方がたの集う生涯学習、「発明クラブ」への質疑応答を
依頼されたのです。勿論私は確たる場所で公演した経験も無く
どちらかと言うと人前に立つ事は苦手な方でしたが、
真剣なやり取りの内 いつしか持論を淡々と述べていました。
後の懇親会の時、私の対応に意外な顔をされてしまいましたが、
私自身にとっても新鮮な場に遭遇でき
未だ社会の一員でありえる自分を感ずる事ができた事は 何よりの収穫でした。



初回原稿

蟻の魂。

蟻を見つめていると、自然界はなんと広大かと
改めて感じてしまいました。彼らの目から
その外界はどのように写っているのでしょう。


一寸の虫にも、五分の魂。

昔から良く聞く言葉です。話を蟻に例えましたが、
実は一個の人間が社会の中での立場を
いかに確立しえるかを改めて考えてみたかったのです。

人生の中で 他人に誇れる偉業をなした者なら
そのような事を今更考える必要も無いのでしようが、私のような凡人が
生きている意味を見つけ出そうとする時
避けて通れない、思考テーマでした。


一つの手段は ウエッブ上で
一個人の日頃の考えを公開する事です。
情報を発信する側はたった一人でも
見てもらえる可能性のある相手は無限です。


とは言っても情報の内容や閲覧のし易さが無ければ
見向きもされません。内容に付いての向上は
今後の課題として考えていくとして
閲覧しやすさの改善は、今すぐにでも出来る
努力目標と考えました。


初期の目標に近づいているかどうかは、
見てくださる皆様の判断する所ですが、
今回のサイト改良はこの点にもっとも重点を置いたつもりです。

今後も改良を重ねていきますが、独りよがりにならぬよう
注意して改良を積み重ねるつもりです。


上に置いた F'Track アイコン   をクリックすると、違った世界が開けるかもしれません。

 左マウスクリック → 戻る

左マウスクリック → Home