強い人弱い人

私自身は最も弱い人の部類に留まりますが、

連れ合いは稀に見る強い人と尊敬しています。

決してカカア天下ではなく最近は私の考えも

良く取り入れてもらえるようになりました。

それぞれどちらに分類されるかは対象との比較によって決まるので

比較対象の目安をどこに置くべきなのでしょう。

この場合一般的な、と言う考え方は成り立ちません。

実はそれを見つけ出すことが、

ちょうど良い人生を送る事になるのかもしれないからです。

私自身がなぜ弱い人間に分類されるのかを説明しましょう。

世の中の流れにそって揺らぎ確固たる確信を持てず

周りで行われる一般の判断基準を自分の物として安易に取り入れてしまい

つまり自分としての方向性をはっきりと打ち出していない

生活を送っているからなのです。

自分に理想や求める方向性がないわけではありませんが

それを実現する勇気にかけるというわけです。

回りの状況に流されるのも又良しとしているからなのです。

体力に自信がない事も理由でしょうが

他とぶつかり合う事を嫌い、協調こそが

最善の結果を生み出すとも考えてきました。

端的に言うと自分の正しいと思う事を

他人に押し付けるだけの勇気を持てないでいました。

一方我が連れ合いは絶対に揺らぐ事のない

確固たる生き方を貫いています。

すべての事を自分の考え通りにこなし

私が従えないやり方は

自分が正しいと思う事は、他人がやっても正しいと

決めつける事なのです。

彼女の主張をそのたびごとに分析しても

決して間違っている内容とは思えず、

人に勧めるだけの価値は認めているのですが

私にとって その事を強いられるのが

とてもつらいのです。

その場で適切な判断と解っていても

自分の方向性を妨害されるようで

許せないでいました。

彼女の父親はすでに他界しましたが

国家勲章を授与された教育者で

人生のかなり長い部分を校長先生として勤めていました。

私と連れ合いが夫婦となり義理の父親共

深く接するようになり、何一つ反発する要素の無い

素晴らしい教えに導かれたことは間違いありません。

改まった何かを話す時、

その声は大変大きく自信に満ちたものでした。

そして人並み以上に私の事を深く理解してくださり

人として尊敬できる以上にとても好きな人でした。

そんな父親の娘ですから

彼女のやる事が確かな事は私も認めますが

ただ一点それと同じことを他人が行っても

素晴らしい結果がえられると思わないでほしいのです。

私の持論、人はそれぞれであり

それなりの存在価値を持っているのですから。

目に見えるものがすべてなのでしょうか?

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